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インタビュー

2014-08-02 17:38 追加

川村慎二 パナソニックの、生命線。第2部

V1リーグ 男子

VBEC121224_4119のコピー―キャプテンを務めた期間は複数回ありましたよね。
2回やってます。南部さんが監督になられる前の2年間ですね。下村監督の。2年間やって南部さんが監督になられて4年後。隆弘、宇佐美、小糸さん、また僕。

―キャプテン複数回やるのってあまりないんじゃ?
初めてじゃないですかね?(笑)。僕も「え?」言うて。当時、次キャプテン誰するんだろうなという話はあったんですよ。リベロがキャプテンはムリだというのは(前季の終わりの)黒鷲からあったので、その時は代理でという形で僕になったんです。やっぱり「え?」てなって、南部さんに「あかんのか?」て言われて「いえ大丈夫です」とか言いながら。みんなと話してて、お前絶対来年キャプテンなるでって話になって「いやぁそれは断るよ~」とか言ってました。でも、大会が終わって家に帰ったその日に「お前、来年キャプテン頼むわ」と…。断れないですよね、やっぱり…「解りました」と。

―キャプテンって、ほかの選手と結構違う役割があったりしますか。
そうでもないです。その人それぞれだと思います。キャプテンシーという特別なものがあるとは僕自身は思わないですし。ただ監督が決めた道があるじゃないですか。それを選手に定期的にしっかり伝えていく。だから僕がキャプテンのときは、すごくチームミーティングはしました。意識のベクトルは持ってないとダメなんで。チーム全体でのミーティングというのはキックオフミーティングの時と、あともう1回あるかないか位なんです。なのでキックオフミーティングの時のレールに、みんながしっかり意識統一しなければいけないと思うし。南部さんもそれは直に僕に言ってくるんです。どうなってる、どうなってる? と。そのためにミーティングはしてましたね。

上の意見を皆に噛み砕いて伝えるというのが僕にとってのキャプテンの役割だったし、常に試合に出てというのも無かったので。ただ年齢的には32,3歳ぐらいの時にキャプテンしているので、選手的な役割もしっかりやらなければいけないというのはありました。声で引っ張るとか今の永野みたいな感じのタイプではなかったですね。

―2007/08シーズンに御自身としては初めてのリーグ優勝をされましたけど。
南部さんが1年目ですよね。僕、その年の初め、面談で本当に辞めようと思ったんですよね。バレーボールを。

―え? またですか?
南部さんが監督になるってなった瞬間に、うわ俺もう辞めようって思ったんです。
南部さんて本当に厳しいんですよね。それ解ってたんで。その時29歳。もういっかみたいな感じで、面談の時に、絶対達成できないような数字を出したんです。スパイク、サーブレシーブ出して、これクリア出来なかったら僕辞めますって。南部さんぱっとみて「ほんまか?」「クリア出来なかったらどうするんだ?」、「辞めようと思っています」って言いながらそのシーズン入ったんです。

そのシーズンは谷村と僕がどっちか出たり出なかったという形で、最終的に谷村が出て優勝して、初めての企業での優勝経験だったので凄く嬉しかったんですけど、その時には辞めようという頭は無かったんですよね。その紙を出したことすら忘れていて。ただ真鍋さんが何年か前にパナソニックにおられた時によく飲んでしゃべっていたんですけど、優勝の瞬間にコートにいるといないとでは違うぞと、どんな状況でも良いから最後に優勝した瞬間に立っていればぜんぜん意味が違うぞみたいに言われたのがすごく頭にあったので、コートに立っていたかったなというのはあったんです。続ける続けないはまったく頭に無かったんです。

―もう続けるつもりでいたから?
その時はなにも考えて無かったです。転機はその年の黒鷲ですよね。OQTがあったので、全日本メンバーが4人くらい抜けて、残ったメンバー10人。あれで優勝できたのがすごく大きかったです。

OQTで全日本組4人が抜けたが優勝し、初めて黒鷲賞を受賞

OQTで全日本組4人が抜けたが優勝し、初めて黒鷲賞を受賞

―見てて凄いなと。あんなにメンバーいなくなっても優勝できるんだと。
あれが今まで人生の中で一番楽しい試合だったかもしれないです。本当にね、のびのびしてました。キャプテンは宇佐美やったんですけど、いなかったから、僕が(キャプテンマークの)テープ貼ってましたから。その黒鷲の何日か前にサントリーさんとの練習試合させてもらったんですけど、僕が全然ダメだったんです。そこでめちゃめちゃ怒られたんですよ、南部さんに。それがもう良い発破やったと思います。それがなかったらたぶん勝ててないかなと思います。大竹のトスが合わないのはもう仕方ない。

―大竹君のトス、誰にもあんまり合ってなかったですよね。
大竹は、まだ丸1年終わったばかりでの黒鷲やったんですけど、まったく実績がなく、いきなりだったんです。あの時宇佐美の控えに岩田っていうのがいてそれも全日本呼ばれて。大竹が上げて、グループ戦とかうちの外人空振りとかしてました。

―トスが合わなくて?
そうですそうです、そんなんあったりとか。けど大竹もずっとやるにつれて。

―1試合ごとに上手くなっていった。
そうです。その時に、今までは何気に打っていたトスを「大竹が上げるから打ってあげよう」という気持ちになったんですよ。どうにかしてあげようと。そこからなんか意識が変わっていったというか。やっぱりスパイカーは、ばーんと決められると嬉しいじゃないですか。けど少しその時に芽生えたのは、フェイントでも1点じゃないですか、決まったら。ブロックアウトでも1点、どーんと決めても1点。どんな形でもいいから決めるかもらうかしてまたチャンスを作ったらいいかなという考えに変わっていった。それからずーっと今まで、続いてきたという黒鷲でした。

―全日本メンバー抜きで黒鷲旗優勝と黒鷲賞受賞は嬉しかったですか。
嬉しかったですね。そのときに大会終わって、南部さんに呼ばれて黒鷲賞おめでとうと言われて初めて武者ぶるいしましたね、南部さんに対して(笑)。

―2009/10もリーグ優勝。
3冠の年ですよね?

―そうです。史上初3冠。
あの時は本当強かったですね、外国人はジョンパウロでした。ジョンは決勝では良い数字残したんですけど、リーグ戦はそうでもなかったんです。そこに入るのが僕と谷村どっちかだったんですね。で、それで上手く回ってたんです。でも彼、セミファイナルですごく良かったんですよね。でファイナルも、もう入るところないなって。けどやっぱり最後コートに立ちたいなというのはありましたね。

―次の年は。
その次の年は…震災の年ですか。途中で終わった奴ですね。大分負けたんですよ。外国人が途中で帰ったんです。帰って僕が入って6連勝して、よしこれからやぞって時に震災があって、終わってしまった。その終わった時点の結果で優勝が決まってしまったので。

―堺さんでしたね。
そう。だから、リーグの中でも常にトップを走っていないとダメだなというのは南部さんと話しました。

 

VBEC121224_3465のコピー―2012年、また全日本選手抜きで黒鷲旗を優勝してますよね。
その年はね、天皇杯でも優勝したんです。チアーゴという外人がきたんですけど。結構苦しい試合で、僕はトーナメントの途中から出はじめたんですよ。決勝はFCさんが来られて、夏場にFCさんと練習ゲームをよくやっていたんですね。で、決勝の前日だったかに南部さんにたまたま会って、「FCやったらお前解ってるからお前行くか?」って言われたんですよ。「行けるんだったら行きたいです」って言って。福澤がいるのでどういう風に使うか解らんけどって言われてそりゃそうやろと。で、決勝朝のミーティングに行ったら「8(川村の背番号は8)」って書いてあったんですよ。「え?!」て思って「いや、言ったけど…」と思いながら、あのメンバーで決勝でスターティングメンバーは初めてですよね。そこで1,2セットとって、3セットとられたところで福澤に代わって最終的には福澤で行ったんです。

最後優勝した瞬間には(コートには)いなかったですけど、あの時は僕の役割というのは解っていたので。前半僕で行って後半で福澤で伸びていって、あれはあれで南部さんのすごい起用の仕方だなって個人的には思って。周りの方はなんで川村でずっと行かないの? みたいな感じだったんです。この試合の後からも結構そういうのがあったんですよ。ずーっと良かったのにポンと代えて。あれは福澤の今後のことを考えて起用してるんだなと。そのことはすごいなと思いましたね。

―スタートで慣らしていったり、途中から入ったりする役割は選手としては複雑なものはある? チームのためと思って納得していました?
そうですね。基本的にはずっと福澤がスターティングで入っている。で、前の試合悪かったりとかしたら、向こうのサーブが良いときは僕が入って僕なりの仕事をしてていうのを福澤に見せるだけでまた変わってきたのかなと思いますし。

福澤も結構僕に対してどうしたら良いですか? こうしたら良いですか? って聞いてくるようになりましたし、良い効果だったんじゃないかと思いました。この年は本当にいろんな意味のターニングポイントになったかなていうのはありましたし。もう1回3冠しましたし、天皇杯はすごくチアーゴもよかったんですよ。おお、すげーなこの外国人とか言いながらリーグに入って、やっぱり僕達って外国人てこれぐらいやってくれるだろうというイメージで入るじゃないですか。けど常に力が発揮できる人がいればできない人もいるんですよ。チアーゴも若かったし波があったんですよね。それでも南部さんはずっと使い続けてたんですよ。本当に悪い時は僕もばっと入ったりしてたんですけど。だけど蓋開けてみたら最後優勝してますからね、ちゃんと。で、その後の黒鷲、あれも10人だったんですよ。

―この時は臨時のではなくて、正キャプテンでしたか。
キャプテンです。あの時はしんどかったです。本当にしんどかったです、体力的に。周りが強かったんですね、あの時も決勝FCさんですよね。そうそう。
あの時の黒鷲メンバーが、セッター大竹、対角が伊東、レフトに僕、チアーゴ、山本拓矢がリベロ、ミドルが白澤、枩田。ベンチが森田、山添、サイドが谷村。10人ですね。ほぼ固定で行きました。伊東も新人だったし、山本も新人だったし。

―宇佐美・山本・清水・福澤・永野と、5人も抜けてますよね。正直こんなに抜けて大丈夫なのかしら? と思ってたんですけど。
みんなが思ってました。みんながすぐ負けるって思ってましたから。僕も心のどこかで「負けるかな」と思いながら、なんとかグループ戦勝って。グループ戦もしんどかったんですよねあれ。つくばユナイテッド、出来田君がよくて、3-1で勝ちましたけどすんごいしんどい試合で、あとあれは確か5月2日…

―誕生日ですね。
誕生日です。黒鷲は優勝したチームがグループ予選はその日の最終試合になるので、うちの試合が最後だったんですよね。この日はスケジュールが押してたので、会場に僕らだけになったんですよ。そしたら、何人か観客席にばっと行って全員で歌ってくれたんですよね。…うれしかったです。

―ハッピーバスデイ?
そうです(笑)。まあそれはさておき、次の試合が大分三好でしたけど、あれもフルセット行って、負けかけてたんですよ。チアーゴが言葉の壁みたいのがあって、上手く行かなかったとき、誰かがヘマをしたとき、何か言いたいみたいなんですけど言っても僕らわからないじゃないですか。通訳さんも言って良い事と悪いことを決めていると思うんで、チアーゴずっとうつむいてへこんでたんですよ。ベンチに座って。セットとられてから。4セット目もとられて、もっと下向いちゃって。

で、チアーゴに怒ったんですよ僕。めぐみさん(通訳)、全部これ訳して下さいって言って。「お前そんな顔してたらあかんぞ、チームやねんから、今はこんだけの人数しかいない。でもそれでやらないかんねんから、お前がそんな顔してたら、みんなが気を使うと。そんな顔するんじゃなくて今は試合中なので、顔を上げて次もう1セットあるんやから頑張ろう!」って言ったんです。でそのままコイントス行って、パッて後ろ向いたらチアーゴがみんなに声をかけてるのが見えて。その試合勝って終わって、チアーゴが走って僕のところに来て、「慎二悪かった、俺はお前のファンになった」って「ありがとうチアーゴ」って。それで、すごい状態の良い大分三好に勝って、チアーゴはそこからぶわっと行きましたね。凄かったです。言ったからにはね、僕もやらんとダメじゃないですか。すっごい数字残してましたよ僕。びっくりするくらい。

2012年春の黒鷲でも、全日本組抜きで優勝し、二度目の黒鷲賞に

2012年春の黒鷲でも、全日本組抜きで優勝し、二度目の黒鷲賞に

―この時も黒鷲賞。
初黒鷲賞とった次の年がフェリペが膝を壊してて、日本人だけで優勝したんです。黒鷲旗。そのとき僕は賞はもらわなかったんですけど、そこぐらいからですね黒鷲男って言われだしたのは(笑)。

―私もちょっと思いました。経歴を見てて。
誕生日が大会中にあるのもあるし、で、そこで黒鷲賞またとって、川村さん本当に黒鷲男やなあって言われましたね。

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