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2017-05-03 08:00 追加

一度離れて気がついたバレーへの想い ジェイテクト・古田史郎(後編)

古田史郎インタビュー

furuta東レとジェイテクトの間の“空白期間”について

——さて、過去の経歴について、東レアローズを辞めてからの“空白期間”について話を伺います。2012年に上海で行われたアジアクラブ選手権で古田選手を初めて取材したのですが、その時の印象は、心ここにあらずという感じでした。元気がないというか。その1年後、北海道であった全日本クラブカップ選手権で、たまたまお会いして少し話した時も、すでに何かバレーに対してのモチベーションがないように感じました。その印象があったので、今回久しぶりにお会いして話を聞いていると、ちょっと意外な印象を持ちました。

古田:まず、東レを離れた時の心境ですが、怪我の影響で「バレーはもういいや」となっていました。本当に結構追い詰められた部分があって、怪我とかいろんなことが重なって、精神的に参った部分もありました。なんとなくゼロからスタートする気持ちで北海道・札幌に行きました。(北海道出身ではあるけど)札幌に実家はないですし、友達は多いですけど、生活はさほどしたことない土地。辞めてしばらくして、何をしようかなという時に、たまたま中学のJOCの時のメンバーで同級生が、近所の学校でコーチをやっていた。そこの監督が、高校の国体の時の選抜の時、よく練習試合の相手をしてもらった時の監督でした。北海道クラブの監督もやっていて、「近所だし、顔をだしてよ」と言われたんですよね。

友達にも会いたかったので顔を出しに行きました。そこの学生と接しているうちに、なんかふと考えさせられることがあって、自分もそういう時期があったんだろうな~と思い起こしました。バレーも結局、やっているフィールドだったり、カテゴリーだったりが出てしまうんですけど、情熱というところは一緒なんだなと感じさせられました。どれだけバレーが好きでいられるのかな。どれだけバレーが好きなのか。その人なりに立場とか色々変えられても、バレーに関わっている。彼らは学生で、バレーは好きでやっている。

一方、僕はバレーを一回離れた。改めてバレーボールと向き合い、あと、社会と向き合わないなくちゃいけない。自分は本当にバレーに守られてたんだなと。プレーしかしてなくて。そういうところで、自分の未熟さ、甘さを痛感させられ、自分の心に素直になった時、やっぱりバレーが好きなんですよ。そこに気づかされた。バレーボールが好きだけど、どういう風に、自分がバレーボールをやっているのが好きかだんだん気が付かされて。

またその時、アスリートのセカンドキャリアに取り組む方と一緒にさせていただいた。その方を通じて、陸上やらバスケや色んな方と会う機会があった。そういうことをしている内に、発信する側でなくて、自分自身が試したいなと思い始めた。僕はまだまだ受信する側だったんですよね。その話を聞きながら、もっとこうすればよくなるんだなと。やっぱり(バレー選手として)挑戦し続けたいと思う自分がいた。

——話を伺っていると、北海道への想いも強く感じました。
古田:いずれは、必ず北海道に戻りたいと思っています。

——12年9月に東レを離れ、ジェイテクトに加入した13年9月までの間にそんなことがあったのですか。当初ジェイテクトに入るつもりはなかったとか。

古田:まず東レを辞めてすぐ北海道に着いた初日に、青山(繁、当時ジェイテクトのコーチ、元日本代表選手)さんから電話をいただいたんですよ。その時は電話でなかったんですが(苦笑)。レベル抜きにして海外に行って見たいなと思っていました。色々とコンタクトをとっていた。海外のバレーボールで生活している人の環境を感じて見たかった。だけど、坐骨の怪我がさらに悪化して、「マジで痛い!動けない!」というのが続いて、その時が北海道での全日本クラブカップの時(2013年)でした。

——それであの大会ではリベロだったんですね。会場で見てて驚きました。なんでだろうと。

古田:北海道クラブの仲間らと「やろうぜ!」ってなっていたんですが、まさかの怪我の悪化がありました。海外に行こうと思っていたのにこういう状態になっちゃって、本当にもうダメなのかなと覚悟しました。クラブカップの前に、ジェイテクトのGMと総監督が北海道に来られて一度お話を聞かせていただいたんですが、「少し考えさせてください」と断りました。怪我でもうバレーはダメだな、一戦を離れないといけないかなと思っていた。ところが、また声をかけてくださって、この怪我で、とてもプレーできる状態ではないのに。また断ったんですが、それでも理解してくださった。それが13年8月末ころだった。

断っても、「とりあえず一度来てくれ」と言われて、一回行った。その時点でも、怪我しているし何もできませんという状態で、一週間後くらいかな、また電話かかってきて、「僕本当に動けないですし無理です」しか言ってないのに、「いいから来てくれ、来てくれ」と言われて。なんとなく、「わかりまして、いきます」と、次の日かそのくらいにジェイテクトに加入しました。迷いながら、とりあえず行くかと行って見ました。

——そこから現在の状態まで、心境にいたるのには相当大変だったのではないでしょうか。

古田:一応契約選手だったので、結果をださないといけない。毎年切られる覚悟をしなければなかった。自分自身も不本意だったら、覚悟はしていました。色々とトライしたいという気持ちもあったし、毎年より良い自分に挑戦するのは絶対条件。そういう中だと、需要がなくなったら、自分自身が考えないといけない、そういう覚悟を持っていてやっています。ジェイテクト1年目はちょっとできるかなというパフォーマンスがでて、2年目もちょっと出た。そこに(現監督の)増成さんがコーチにきてくれて、熱心に指導してくれていたんです。まずそこですね。僕の第一のターニングポイントは。つきっきりで指導してくれました。そして3年目に入った時に、ずっとサーブカットやっていて、それこそリーグ直前までやっていたんですけど、そこでオポジットやってくれと言われて、そこでオポジットで出続けた。

——オポジットで出続けるウチに、ずっと迷いながらジェイテクトでやっていたのが、だんだんとその気になったわけですね。

古田:純粋に勝つために、もっと上手くなるためにどうしようというところと、それでも試合で使い続けてくれて、本当に一喜一憂しながらですけど、勝ったら嬉しいし、負けたら悔しい、繰り返し。怪我だけの2シーズンだったから、もっとやるという風になったのかなと。

——昨シーズン終えた段階で精神的に吹っ切れて、先を見ようという気になったわけですか。

古田:そうですね。もう一回挑戦しようかなと感じました。(去年の)黒鷲旗の決勝で負けた瞬間に、何をしてる、何になれる、もっとやれるぞと本当に思いました。

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