全日本バレー、Vリーグ、大学バレー、高校バレーの最新情報をお届けするバレーボールWebマガジン|バレーボールマガジン


バレーボールマガジン>インタビュー>カーテンコール 大浦正文さんを悼む

インタビュー

2013-12-27 18:55 追加

カーテンコール 大浦正文さんを悼む

Others

日本人離れしたジャンプ力が印象深いスパイカーの大浦。ジュニア時代からナショナルチームに在籍し、まだまだ現役の96年に突如引退し、母校の教員への道を目指して大学へ。高校バレー部の顧問をしつつ、学生生活をエンジョイする彼の現在は-。

「僕は、バレー馬鹿だから」

早すぎた引退
大浦に関しての印象といえば、まだ記憶に新しい「突然の引退」と、バネがついているのではないかと思うほどに強烈なジャンプ力の2点だ。前々回の蘇武もそうなのだが、レギュラーからだんだん控えにまわり、そして引退、という過程をたどらずに、レギュラーとしての力を持ったままの引退というのは、非常に強い印象を与えるものだ。ジルソンが加入してからのサントリーは、リーグ、黒鷲の二冠を制し、無敵の強さを見せつけているが、大浦が引退した直後は、彼の去ったあとの大きな空白をなかなか埋められず、苦しんでいたように思われる。

もっとも、「突然」と思っていたのはファンだけで、本人はバルセロナ五輪参加の頃から引退と大学進学を考えていたのだという。
「25歳くらいからかな、早めに引退して、大学に行って高校の先生になろうと思った。自分の身体が動かなくなってから指導者になるんじゃなくて、現役バリバリの選手が高校生と一緒にやるっていうのがやってみたかったんです」。
「最後のリーグは足の故障で思うようなプレーができなかったけど、別に選手として終わったと考えていたわけじゃない。まだまだやれると思ってました。だから『選手としての限界を感じて』の引退ではなかったんですよ」。
現在は、母校の長崎商業で技官助手という身分でバレー部を指導しているという。部員の数はなんと6人。これでは試合参加人数は常に規定ぎりぎりである。ここ最近のバレー不人気のせいなのかと絶句する筆者に、大浦と生徒達はあわてて「いや、うちの学校ってもともと女子がほとんどなんで、男子生徒の数自体が少ないんです」と笑って説明してくれた。

現役時代の想い出
「全日本時代の想い出というと、ジュニア時代のことが一番印象深い。あの頃は、勝つための技術と理論を学びましたね。国際大会でも割といい成績を収めることもでき、『勝てる』自信をつけることができた。
シニア(=普通に「全日本」と呼ばれるナショナルチームメンバー)になってからは、身体をいじめて精神を鍛えるような練習に変わっていきました。実は、シニアになってから、なかなか勝てなくなっちゃったんですよ。多分今のバレー界もそうだと思うんですが、ジュニアの頃は強くても、上に上がるに連れてだんだん勝てなくなっちゃう。もう少し一貫した強化法を実践した方がよいのかも知れないですね」。

シニアになってからのキツい練習は、大古監督の「飴とムチ」合宿で何度も経験した。
「何でこんな練習しなきゃならないんだろうって思いながら、おしまいには何も考えられずに身体がぱっと動くまでやらされるんですよね。で、うまくできてるのは、合宿が北海道であるんですけど、北海道は涼しいし、ご飯は美味しいし、街の人もすごく親切だし、すごく良いところなんですよ。だから、毎年合宿っていうと、『あ~、またきつくてやだなあ』という気持ちもあるけど『また北海道ならいいか』みたいな(笑)」
インタビューを行った日も、ちょうど長崎商業の運動部が合宿を行っている最終日であった。

「僕がいたときは、ジュニアとシニアのメンバーはあまり入れ替えがなかったので、これまでの『勝った』経験を生かして、どうしたら勝てるか、ということをみんなで話し合ったりしました。勝った経験があるのとないのとでは、ずいぶん違うと思います。自信もそうですし、勝つためには、どうしたらよいのか、ということを頭でも身体でも知っているのと暗闇で手探りするのでは、大違いでしょう」。
「一番記憶に残っているのは、世界選手権の最終予選で、前日3-0で負けて、その晩にワンマンレシーブをやって、最終戦できっちり勝ったこと。あとは、オリンピックの最終予選で、韓国に勝ったときかな。予選ばっかりだね(笑)」

オリンピックの経験
アトランタに続いて、史上初の男女とも出場権を逃したオリンピックについて話が及ぶと、大浦は少し複雑な表情を見せた。
「オリンピックねえ…。僕が出たのはバルセロナ五輪でしたけど、やっぱりすごいプレッシャーでしたよ。行く前はこんなの世界選手権やワールドカップと同じじゃん、他の競技も一緒にやるだけじゃん、なんて思ってたんですけどね」
「でも、それだけやっぱり自分の実になったとは思いますよ。そういう経験をしたことは。無駄にはなってないと思います。日本の選手がそういう経験をする機会を、2回続けて逸してしまったのは、本当に残念です」

そして、若輩者の自分があれこれ言うのは差し控えるけれど、と前置きをした上で、
「今の日本のバレー界には、何かが…足りないんでしょうねえ」
と嘆息した。

 

「日本のバレーを本当に支えているのは、誰なんだろう」

長崎大学の同級生と正門にて

長崎大学の学友と正門にて

草の根でできることを
今の大浦は、長崎大学経済学部の2部に籍を置き、教員免許取得に向けて尽力している。現在3回生である。学業の傍ら、冒頭でも述べたように、母校長崎商業バレー部を指導している。自分ではもうプレーはしていないのか、とたずねると、「もちろんしていますよ」と快活に笑った。

「長崎教員クラブっていうのがあるんですけど、そのチームに所属しています。九州はバレー王国なんですけど、長崎はその中では弱い方なんですよね。実は、長崎教員クラブは、指導会みたいなのを作ってるんです。試合のない時は各地の中学校をまわって練習試合をしたりするんですよ。他の県の人には『だから長崎は甘いんだ。試合に勝つ練習に専念するんじゃなくて、そんな他ごとまで』とか言われるんですけど、僕は逆にそういうところがすごく気に入ってるんです。こどもが少なくなってるし、なかなか試合も組めない、って時に練習相手がいるっていいじゃないですか。単なる趣味の草チームじゃなくて、せっかく教員で作ってるチームなんですから。もちろん、成績向上のためにもがんばってますよ。本当は、僕はやっぱりまだ『絶対勝たないと!』という意識でやっちゃうんですけどね(笑)。実業団にいた頃と比べると、『楽しいバレー』というのがなかなか新鮮です」。

「今、すごく思うのは、『本当にバレーを支えているのは誰なんだろう』ってこと。日本には、こういう他国に例を見ないような学校をベースにした部活システムがあるけど、それはちゃんと生かし切っているんだろうか、とか。僕がそういう現場に携わることによって、どんどん埋もれている才能を見いだして中央に送っていきたい。僕自身も、対馬のど田舎にいたのをそうやって見つけだしてもらって、全日本まで行けたんですから」。

話し終えた大浦は、合宿の締めくくりのために部員達が集まっているところへ向かった。あちこちから「こんにちは!」の声がかかり、生徒達に親しまれている様子が窺えて微笑ましい。
「いろいろ言いましたけど、僕はやっぱりバレー馬鹿ですから。バレーと一緒に生きていこうと思ってますよ」

BIOGRAPHY
1969年9月28日生まれ
長崎県対馬市出身。長崎商高卒業。
19歳で日本代表入り。 92バルセロナ五輪、89、91年W杯、 90年世界選手権に出場。
身長188センチとバレー選手としては大きなほうではなかったが、 1メートル近いジャンプ力を生かし、バックアタックを放つスパイカーとして活躍。
サントリーの選手として日本リーグ(現Vリーグ)で猛打賞を2度獲得した。

ファンの皆さんへ
その時にしかできないことを精いっぱいやって下さい。
僕も精いっぱいやってます。

 

この記事の後、大浦は無事に長崎大学を卒業して、母校長崎商業の教員となり、12年4月から長崎県立壱岐商業高に勤務。数年前から体調を崩すことが 多くなり、今年10月からは休職して、治療に専念していた。
2013年12月20日、都内の病院で胃がんのため死去。享年44歳であった。

 

>> インタビューのページ一覧へ戻る

同じカテゴリの最近の記事

コメント

Sorry, the comment form is closed at this time.

トラックバック