2017-07-19 17:35 追加
越川優 さようならの代わりに。
SV男子
サントリーに入社した彼は、ルーキーイヤーからレギュラーで出場。大エース、ジルソン・ベルナルドによる5連覇の最後のシーズンをともに戦った。最後の黒鷲旗での記者会見で、「先ほど一番印象が深い試合は、この黒鷲旗と言われましたが、それを含めて、3つ挙げていただけますか」と聞いてみたところ、迷いに迷いながら挙げた最後の一つが、このサントリー1年目の優勝だった。彼の、原点の一つなのだなと思いながら聞いた。
アテネ五輪世界最終予選では、合宿に呼ばれたものの、12名からは外れた。その夏に行ったインタビューで「北京OQTではヒーローになってくださいね」と言うと、彼は目をぎょろりとさせながらこう言った。「OQTじゃなくて、北京五輪のヒーローになりますから。お間違えなく」。不敵な言葉に、ただ者ではないなと思わされた。
2005年、植田辰哉が全日本男子監督に正式に就任し、しかし、全日本は辞退が相次いだ。9月に行われたアジア選手権には、セッターは朝長孝介一人だけの11名で出発した。個人的には、このときの越川の活躍が印象深い。予選ラウンドの韓国戦で、途中で攻撃の両軸だったうちの一人である柴田恭平が怪我をして退場したあと、打って打って打ちまくり、第5セットを25-23でとりきった。アジアバレーボール連盟に「スマッシングマシーン」と称された大会だった。どんなに絶望的な状況でも、決して折れることなく戦い続ける姿に「エース」を見た。当時、彼に「エースの定義を教えてください」と尋ねると、「どんなかっこわるい打ち方だろうと何だろうと、とにかく点を取ることだと思っています」と迷いなく答えてくれた。
彼のキャリアハイがいつだったのかは、諸説あるだろうけれども、一つはやはり、16年ぶりに出場権をつかんだ北京五輪だろう。先の質問でも、「北京五輪は、どの試合がというわけではなく、大会全部が印象に残っている」と、二つ目に挙げてくれた。残念ながら、本戦では1勝もあげることができなかった。しかし、出場したことで、「人生が変わった」という。
北京五輪で大きな怪我を負い、手術を受けた。そしてまた彼は大きな決断を下す。2006年のVリーグで優勝し、MVPを受賞したのをきっかけに、社員ではなく、プロとしてサントリーと契約を結んでいた。今度は、海外に挑戦することにしたのだ。こう書くと、彼には「行く側からしたら、『挑戦』じゃないんですよ! 普通にプレーしに行くだけです」と怒られてしまいそうだけれど。
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コメント
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山田太郎 [Website] 2012.04.20 13:00
越川選手のことはよく知らなかったけど、バレーの嫌なしがらみに翻弄されて素晴らしい選手の貴重な時間が過ぎてしまったのかと思うと切なくなりました…