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インタビュー

2020-04-28 12:00 追加

JTマーヴェラス・吉原知子監督「優勝は過去のこと。来季へのチャレンジはもう始まっています!」

SV女子

――試合運びをする上で、チームがドルーズ選手に依存しないように配慮した部分はありますか?

吉原:彼女は素晴らしいプレーヤーで大きな戦力であることは間違いないですが、常にうちのコンセプトである“全員で拾って、全員で攻撃するバレー”を第一に考え、彼女が一番というより4枚攻撃の中の1枚であるという認識をチームで持つようにしていました。

――控えの選手に求める役割など、普段からモチベーションを引き出すために声をかけていることはありますか?

吉原:試合に出る、出ないや、スタメンか控えなのかは関係なしに、誰が出ても自分の役割、仕事をするということは練習からずっとやってきたことです。なので、選手も自主的に意識できるようになってきていると思います。

――優勝という結果が出ましたが、来シーズン選手に求めることは? 引き続き伸ばしていきたい部分や、あえて新しい挑戦や発想の転換をしたい部分がありましたら、それぞれ教えてください。

吉原:優勝することよりトップに立ち続けることの方がよっぽど難しいことだと思います。
昨シーズンと同じようにやっても結果は出ないと思いますし、常に変化を恐れずにチャレンジしていきたいですね。

――トップリーグの監督は短期的には結果、中長期的には選手のレベルアップが求められると思います。シーズンを通じて選手を育成しながら起用していくことに対して難しさを感じることはありますか? 選手育成と結果を出すことのバランス配分はどのように考えていらっしゃいますか?

吉原:育成と結果を別に考えることはありません。どちらかをとり、どちらかを犠牲にすることもないと考えています。結果(勝利)を出すことに対して選手の育成(成長)は不可欠なことだし、成長のツールとして日々の練習があると考えています。もちろん試合での経験は大きいですが、普段の練習も同じくらいに大事です。

【プロフィール】
吉原知子(よしはらともこ)
1970年2月4日、北海道妹背牛町生まれ。中学からバレーボールを始め、妹背牛高から日立(現在の日立とは別チーム)に入団。センタープレーヤー(現在のミドルブロッカー)として活躍し、1992年、バルセロナ五輪に出場。1995年、プロ契約選手としてイタリアに渡り、セリエA・ローマでチームを準優勝に導いた。帰国後はダイエーに移籍し、1996年、アトランタ五輪に出場。その後、東洋紡、パイオニアに移籍し、すべてのチームを優勝に導いたため、「優勝請負人」と呼ばれた。また、2003年に全日本に復帰すると、2004年のアトランタ五輪では主将としてチームを牽引した。2006年に現役を引退し、バレーボール解説者などメディアで活躍する傍ら、2009年から2年間、筑波大学大学院に通い、修士課程(体育学)を修了。2015年6月、JTマーヴェラスの監督に就任。2020年1月、自身初のトップリーグ優勝監督となる。


写真:堀江丈

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