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インタビュー

2014-03-12 19:49 追加

東京五輪の星たち 川口太一

星城高校から豊田合成に内定した川口太一選手のインタビュー

SV男子 / 高校バレー 男子

IMG_0014-s新シリーズ・「東京五輪の星たち」。トップを飾るのは、今年1月の春の高校バレーで連覇を達成した星城高校3年生の川口太一選手。リベロとしてチームの守備面を固める役割を果たした。V・プレミアリーグ男子選手のほとんどが大卒である中で、進学を選択せずに豊田合成トレフェルサに入団。少しでも早く高いレベルでプレイして、東京五輪を目指すという。

 

ーーバレーを始めたきっかけは?
自分の父親がバレーボールをやっていたので、小学校3年生からやり始めました。
そのころはフリーポジション制でレシーバーでした。中学校に入ってもバレーを続けて。中学校の時は、一応スパイクを打っていました(笑)。アタッカーです。

ーーアタッカーだったんですね。春高の時にお聞きしたんですが、最初は岐阜の学校で、途中から愛知の学校に変わったとか。
自分が小学校の時に教えてもらっていた指導者の先生が、愛知の自分の行った中学校にいて。中1までは地元の岐阜の学校に通っていたんですけど、中2からはやっぱりより高いレベルでやりたいというか、いい指導者の下でやりたいという気持ちが生まれて、その先生の学校に転校しました。

ーーほかの選手のことを先に考えるということは、病気で亡くなったお母さんのことがあってだと春高でおっしゃっていましたね。
自分の母親は、僕のことを優先的に、自分を犠牲にしてまで支えてくれたので、やっぱり自分もバレーの時に、自分では点が取れないポジションなんで、自分のことじゃなくて、ほかの選手に気持ちよくプレイさせたり、他の人を満足させられるようにいつも心がけていました。亡くなったのは高1の冬です。 母が書いていた日記を読ませてもらって、母がどんなことを考えていたか、つまり自分のことじゃなくて僕のことばかり考えていてくれたことを知りました。

ーー山口県の白血病の少年と交流があったそうですが?
自分たちが2年生のころの春高で優勝した時に、山口県のその彼、吉田君がテレビを見ていて星城のファンになってくれたんですね。それでお兄さんが誕生日プレゼントに星城のものを挙げたいということで竹内先生と連絡を取って星城まで来られたんです。吉田君が白血病になるまではバレー部にいて、やっていたポジションがリベロだったので、自分も何かしてあげれないかと思ってメールのやりとりなんかをするようになりました。

_DX_5775-sーー6冠達成は喜んでくれましたか?
はい。相当喜んでくれました。試合前にお兄さん経由で手紙をもらったんですけど、「大好きな太一兄ちゃん、絶対に優勝してね」って書いてあって、絶対勝ちたいと思って励みになりました。まだ直接は会ったことはないんですけど。

ーー6冠を達成した時の気持ちは?
すごく嬉しいというのと同時に、ああいう素晴らしい仲間や指導者に巡り会えたのが、離ればなれになってしまうんだという寂しさもありました。

ーー春高はどの試合が一番の山場でしたか?
準決勝の東福岡戦ですね。

ーー6点くらい相手にリードされてしまったセットもありました。
はい。でもあきらめずに、そのセットもとり切れたのは大きかったと思います。

ーー春高ではあえて相手のスパイクにブロックにつかず、ディグ(スパイクレシーブ)で上げて切り返すという戦術をとっていましたが。
あれはみんなで決めたことなんです。チームで話し合って、バックアタックは、基本は飛ばないんですけど、東福岡の時だけは、最初は飛んで、相手にブロックが来るというプレッシャーをかけておいて、最後の方になったらブロックに飛ばずにディグで拾うというのがチーム全体で決めた約束事だったんですよ。

あえてブロックに飛ばずディグを上げる方法をとったのは、川口選手がいたからこそだと主将の石川祐希も断言した

あえてブロックに飛ばずディグを上げる方法をとったのは、川口選手がいたからこそだと主将の石川祐希も断言した

ーー見ていて、途中までは「全然ブロックがつけてないな~」と思っていたんですが、だんだん「ん? これはわざとブロック飛んでない?」と気がつきました。
はい。最後の方はわざとですね。こっちの思惑がうまく当たりました。

ーー相当ディグ力に自信がないとできない方法だったと思うんですけれども。特に中心となるリベロとして、その方法で成功する自信はあったのですか?
普段からバックアタックはブロックつかずにディグで上げるという方法をとっていたので、ブロックで止めるというよりは、レシーブで拾うという方が、チームとしても自信があったと思います。

ーー今までのバレー生活を振り返って印象に残っていることってありますか?
(星城の監督の)竹内先生に言われたことで、技術とかじゃなくて、人としてのことをたくさん言われて。感謝の気持ちを忘れないとか。当たり前のことをしっかりやっていかないと、バレーの技術の向上にもつながらないみたいなことを言われたんです。それまでは、母のことがあったとはいっても、やはりどこかで自分のことばっかり考えてしまいがちだったんですが、人がこうされたら喜ぶとか、こうされたらイヤだな、という人の気持ちを理解しようというように考え方が変わりました。高2の国体くらいからです。

あとは中学時代、JOCの愛知選抜のときに、準優勝したのが一番最初にすごく嬉しかったことですね。今の星城のメンバーがその時に集まったんですけど、それまでの中で一番厳しい練習だったので、それを乗り越えて、優勝はできなかったけど準優勝できたというのは、心に残っている大事なひとつです。

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