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コラム

2024-10-02 07:34 追加

悼む 荒木田裕子さん逝去によせて 奥本浩平

荒木田裕子さん追悼

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ユウさんとのメールは7月11日が最後でした。「体調イマイチ、私もです。頭が痛くて朝からグダグダしてます。この季節はしょうがないですね。のんびりしましょう。無理してもしょうがないし。」(13時44分)、僕の方から「しばらくマイペースでのんびりしましょうね。パリ五輪のバレー応援に全力をそそぎましょう!」(18時39分)、 「そうしましょう!」(18時40分)。これっきり。何度電話してもメールしても、返信なし。突然、9月17日朝、「荒木田裕子さん、死去」の一報を受けました。死因は筋ジストロフィーとか。

一瞬、時にビールを飲みながら、時にコーヒーだけでのバレーボール談義が、頭の中を駆け巡り、ただ茫然。現役を引退してからの付き合いが多く、ザックバランに話し合うようになったのは、私がスポーツ紙を退職してから。マスコミへの警戒感がなくなったからでしょうか。JVA(日本バレーボール協会)やJOC(日本オリンピック委員会)のことなど、バレーボールのことなら2時間でも3時間でもしゃべり合ったものです。正義感が強く、自分の意見をしっかり言う。東京五輪・パラリンピックの談合事件では、組織委員会副会長の立場もあり「きっちり総括をしないといけないのに誰もやろうとしない」と悔しがっていたのが思い浮かびます。

2、3か月に1回、中野か高円寺で会ってのバレー談義も1月の高円寺が最後になりました。パリ五輪での女子には、自ら強化委員長を務め28年ぶりの銅メダルを獲得したロンドン大会を思い浮かべながら、真鍋監督へエールを送っていました。ここ2,3年、JVAからは距離を置いていましたが、その動向は頭から離れません。「川合くん(会長)、どうしていますか。力になる事があれば、ね。〇〇さんは?」あれこれ気になりながらユウさんは亡くなりました。70歳。モントリオール五輪から48年、金メダリスト12名の中で真っ先に天国へ。それにしても語学堪能で広く海外にもネットワークを持つ貴重な人材をバレーボール界はもちろん、日本スポーツ界は失いました。

荒木田裕子さん
1954年2月14日東京生まれ
秋田県仙北郡田沢湖町出身の元バレーボール日本代表、バレーボール指導者。モントリオールオリンピックのバレーボール女子で金メダルを獲得したメンバーで、引退後は指導者、解説者として活躍。堪能な語学力を活かし、2020年東京オリンピック・パラリンピックの招致に組織委員会副会長として貢献した。日本バレーボール協会強化事業本部長、女子強化委員会GM兼務。

奥本浩平
バレーボールマガジン顧問
青山学院大学卒業後1964年報知新聞入社。バレーボール中心に野球以外のスポーツを取材。編集局総務を経て、取締役制作局長を務めた。2007年からNPOモントリオール会理事に就任。バレーボール界へのメディアとしての取り組みに今も活動中。

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