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インタビュー

2025-03-28 16:27 追加

1984ロス五輪銅メダリスト・三屋裕子さん(現・日本バスケットボール協会会長)インタビュー「スポーツが世の中にいい影響を与え、社会課題の解決につながるような活動をしていけたら」

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現役時代。強敵・中国を倒し、金メダルとロス五輪切符を獲得した1983年アジア選手権にて

――バレーボールについても、三屋さんの大学生当時はユニバーシアード(現・FISUワールドユニバーシティゲームズ)に10人しか出場できない(現在は12人)など、そういうところでも厳しさがあったのでは?

三屋:そうですね。初めての海外遠征が本番の試合でしたからね。時差とか食事とか、何を持っていけばいいのかっていうのも先輩に教わりながら遠征に参加しました。1年生で初めて出場した大会(1977年)は開催地がブルガリアでしたが、当時は食事事情もあまり良くなかったですね。そこで自分のパフォーマンスもほぼ発揮できなかったので、チャンスをいただいて連れていってもらった割には、本当に何の役にも立てなかったなって思うのが、1年生のユニバーシアードです。

――その後、2回ユニバーシアードに出場されていますね。2回目も大学時代でしたが…?

三屋:3年生の時(1979年)にメキシコユニバーシアードがあって、この時は事前にアメリカで時差調整のキャンプがあり、コンディション調整をさせてもらったので、銀メダルを獲得して帰ってきました。

――その活躍が日本代表入りのきっかけとなり、翌年(1980年)にモスクワ五輪がありましたが、ボイコットで出場できませんでした。出場が叶っていれば大学4年生で五輪選手になっていましたね。

三屋:はい。最終メンバーに選んでもらってたんですけど。開幕の2か月前にボイコットが決まり、この時は「もうバレーやめようかな」と思いました。チャンスがあっても叶わない夢ってあるんだなって思ったのがモスクワ五輪ですね。

卒業してすぐに学校の先生になろうかなとも思いましたが、もう1回くらい大きな世界大会を経験したくて日立に入りました。その年(1981年)にルーマニアユニバーシアードがあって、その後すぐにワールドカップがあり、ここで当時のバレー三大大会(五輪、世界選手権、ワールドカップ)にデビューしました。

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