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インタビュー

2014-07-18 12:56 追加

丹山美沙緒

異端のバレー選手ストーリー

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IMG_2927-s国内チームをいくつか転戦したあと、モンゴルリーグで7年過ごし、現在はフィリピンリーグに挑戦しようとしている丹山美沙緒さん。破天荒なバレー人生はどのように形作られたのか。その足跡をお話しいただいた。

 

バレー歴は、9歳からバレーを始めまして。父親が元々バレーをやっていて、近所でいいところがなくて、父親がチームを作ろうかということになって、それから小学校・中学校・高校とバレー部でした。私は元は在日韓国籍、今は日本国籍を持っています。父親が在日韓国のクラブチームでやっていて、ミュンヘン五輪の候補にはなったんですが、やはり国籍の問題ではずれてしまって。

最初はNECに入りました。葛和さんが監督の時ですね。2年目くらいのときに全日本の監督に就任されて、吉川コーチが監督に。そのあと、3年ちょっとして、東洋紡に移籍して柳本さんが監督でした。移籍した年にサーブ賞をとりました。
一度インドアの方を離れてビーチを目指していましたが、トヨタ車体の監督に声をかけてもらって、やはりインドアがやりたいと思って、トヨタ車体に。そこでは3年くらいですかね。

トヨタを辞めて大阪に戻ってきて、高校が大阪女子短期大学だったんですけど、コーチとしてお手伝いをやっていました。このときモンゴルで大会があって、コーチとしてチームを引率していったんですが、そこでモンゴルの国営会社の火力発電者の社長さんにうちのチームに来ないかとお話しをいただいて、コーチ兼任で行くことにしました。やっぱり選手としてまだやりたいというのがあって。怪我はあったんですけど。
社長さんと話をして、レベルもそんなに高いわけではないし、それなら逆に自分でもできるかなと思ったんです。

IMG_2922-sはじめは7ヶ月間だけの契約だったんですけど、それがのびてのびて7年くらい。ほとんど選手としてやっていました。

モンゴルの印象は……最初は、コーチとして大学生と遠征行く前に、「モンゴルって体育館あるの? 草原でやるんじゃないか」みたいなことを冗談半分で言ってたりするくらい知識はなかったです。「移動は馬でするのかな」とかね(笑)。

行ってみたら、一応ちっちゃい体育館がありました。スポンサーとなる会社があってそこで選手を集めて、リーグもあったんです。第4火力発電所で働いてる子達がほとんど。試合もして、試合期じゃない時は普通に働くんです。私ははじめバレーだけの契約だったんですけど、途中で社員契約になった。
最初の半年は通訳さんも運転手さんもいたけど、次から全部なくなって。通訳やってた子に聞いたり、頑張って、2年目になって日常会話ができるくらいにはなりました。

バレーボールはモンゴル語で「ガルブンブク」っていいます。ガルが手で、ブンブクというのがボール。なんだかちょっと可愛いですよね(笑)。英語があまり通じない。英語を使うとコミュニケーションがとれないから、しかたなくモンゴル語を覚えました。毎日毎日使っていると覚えるもんです。辞書がなくて苦労しましたね。ネットで調べたりとか。後半はほぼ辞書なんかは見ずに、くだいてくだいて。意味も分からず、現地の子が言った言葉をまねしたりとか。楽しいシチュエーションだから楽しい言葉なんだろうなとか。

モンゴルリーグ時代の思いでは、一つには言葉が通じないので、セッターとしていったので、コミュニケーションが難しかったです。同じバレーボールでも、国民性が違うとちょっと違う。最初はとまどいがあった。自分が歩み寄るほうにちょっと変えていった。譲れるところ、譲れないところはもちろんあって、だからケンカもしたり。

ちょっと思ったのが、国民性が集団競技に向いてないのかなと。協調性がないんですよね。団体競技だと、大会にも出れない。でもモンゴルの人達は、楽しいからやってると。自分たちで楽しむからいいんだと。

いい意味での厳しさとか、本当に上手くなりたいのかといういろんな葛藤もありました。自分の気持ちを振り返った時に、すごく楽になりました。日本では「こうでなくてはいけない」みたいなのに縛られていたのが、それから自由になれました。

ACC140418_4464のコピー海外に行ってまでバレーがやりたかったのに、一時期楽しくなかった。そういうのを考えるのをやめよう。そしたら楽しいし、みんながどう感じてくれるか。そうしたらすごく楽になって、だんだん言葉も気にならなくなりました。

外国から来てる人は、一年目はもう一人連れてきてと言われて、車体の後輩を連れて行きました。他のチームもロシア人が2人ずつ。その次の年からはあまり外人はとらなくなった。金銭面で大変だったみたいで。2年目は韓国人選手が2人、何年目かに、もう1人別の日本人の子を呼んで。そんな感じです。

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