2014-08-02 17:38 追加
川村慎二 パナソニックの、生命線。第2部
SV男子
川村のバレー人生の始まりは、どんなものだったのだろうか。インタビューの際に、特に引退記事の取材の際にはほぼいつも使う質問事項なのだが、大体すらすらと話し出す他の選手と異なり、川村はしばらく無言で考え込んだ。
―あの、そんなにややこしいんですか?
おそるおそる尋ねると、まだしばらく何か考えながら川村は答えた。
「ややこしいんです」。
そんなに難しく考えなくてもいいんですよ、と言ってもまだ川村はめまぐるしく頭の中で考えをまとめているようだった。
「すごく、ややこしいんですよ」。
そして、インタビューは始まった。
小学校2年のときに男子バレーチームができたんですよね、小学校の。その男子バレーチームを作ったのがうちの母の知り合いで。ちょうど校舎立替で体育館もなくプレハブの間の、言うたら土の上で、ボール遊び、みたいな形だったんです。そこに無理やり「行け」と言われたんです。
―いきなり?
「行け」と。「今日試合やから行け」と。「人数がいないから行け」と。バレーボールなんてやったこともないのにと思いつつ、しぶしぶ行ったんです。行ったら雨が降ったので、練習ゲームが無くなって、校舎の中で遊びみたいになったんですよね。そこでお菓子とかいっぱい出てきたんですよ。「なんじゃこら」と。これがバレーボールかと(笑)。
―なんか行ったらお菓子がもらえるじゃないかと(笑)。
そうですね。小学校2年の考え方ですよね本当に。それからです、バレーボール始めたの。ちょくちょく行きだしたんです。
―お菓子もらうために?
そんな感じで。結構もらったんです。卒業シーズンで、6年生を送る会とかでお菓子がもらえて。体育館もなくずっと外で遊びながらね。バレーボールという感じじゃなくてボール遊び。それがバレーの初めのきっかけです。なぜそこに入れられたかというのもあるんですけど。僕子供の頃すごくやんちゃで。
―え? そうなんですか。
もう、親が手を焼くほどの。それで、このままじゃどうにもならないっていうんで、突っ込まれたわけです。それがたまたまバレーボール。母がバレーをやっていて、夜練習の時に体育館で遊んでいたりしたのもあったんですかね。その前に父が野球をやっていたので、兄と一緒に野球にも一度行かされたんですが、6年生の投げた球がバーンと(体に)当たって、泣いて帰って「絶対野球なんかやるか!」と。
―そこが進む道の分かれ目だった?
そうですね。ばちこーんで泣いて帰ったのと、お菓子とね(笑)。で、やり始めたら鬼のようなしごきが始まりましたけど。
―それから中学・高校と強豪校へ進まれましたが、そのいきさつとか。
中学校は、これも無理やり(笑)。小学校6年生の時から奈良県の菟田野中学校へよく行っていたんですよ。練習させてもらったりとか。そこで先生が奈良来ぃへんかと。
―もう身長は高かった?
いえいえ、全然です。中学校入学のときに160cmちょうどくらいだったんです。でも、向こうの監督さんがわざわざ滋賀まで来てくれて、まずは食事攻めですよね。ファミリーレストランでなんでも好きなもの食えと(笑)。で、よく考えてみてと言われて。何日かしたあとに「行きたくない」と僕言ったんです、親に。それは鮮明に覚えているんですよね。親に言ったのは。
―それはなぜ? 親元を離れるのは寂しかった?
それはありました。うちの小学校から3人一緒に行ったんで、結果的には別に寂しくはなかったんですが。それ以上にあんまり真剣にバレーをしたくないというのもちょっとあって。このまま地元の中学行けば、友達も、うちの兄も同じ中学いましたし、「楽なほうを選びたい」と言ったんですけど。なのに、小学校卒業するにつれてなぜか引越しの準備が着々と進んでいて(笑)。「なんでかなぁ?」と。でも僕もそれ以上何も言わず「ああ、行くんやなあ」と。
―外堀から埋められる感じ?
そうですね。で、行きました。
―反抗はしなかった?
反抗は出来なかったです。
―中学校時代は強かったんですよね。
そうですね。中学校は全国も優勝させてもらいましたし。3年生の時です。さわやか杯も優勝しました。
―楽しかった?
いやああぁ、厳しかったです本当に。監督さんの家に何人か下宿してるんです。監督さんのお兄さんの家が隣で、なぜか僕一人だけこっちに入れられて。これは結構寂しかったです。で、先生の機嫌悪かったら夜、走ってこーいって。「はい!」って返事して、外ばーって走りに行ったふりして、適当に時間つぶしたりね。
―川村さんのイメージがだんだん変わってきました(笑)。高校生相手に練習されていたとか。
中学校3年のとき、結構強かったんです。なので先輩が行っている、奈良県の高校のメンバーと夏ずっと練習していました。勝ってましたけどね。
―え? 高校生相手にですか?
はい。
―中学生相手だと敵なし?
あの時は本当に強かったんです。公式戦でセットとられたのは1セットだけなんですよ。負けゼロです。3年生の時です。練習ゲームでもセットとられたのが5,6あるかないかです。大商大高校へ行ったりだとか、菟田野の近くに高校があるんです。中学校からそこまで走らされてそのままゲームとか、そんなんしょっちゅうやってたので、あれは本当に良い練習になりましたね。
―それで大阪商業大学付属高校に。
はい、もう中学校入った時点で決まってました。選ぶ権利ない。そんなんばっかりです(笑)。
―春高準優勝されたのはいつですか。
1年から2年へあがるときと、2年と3年にあがるときですね。当時は2回しか出られなかったので、2回ともです。
―公式サイトのコメントで「楽しいことばかりではなかった」というのはこの頃の話かなと思ってたんですけど、結構ずっとですね。
本当に何回もバレーやめようと思いましたけどね。もう嫌やって。
―練習がきつくて?
練習っていうよりは、理不尽な怒られ方が多かったんですよ。結構怒られ役で。嫌やと思ったことありましたけど、誰にも言えず。結局は行くと。そんなんばっかりですよ。
―脱走したりとか?
そういう勇気はなかった。あったらまた変わってたかもしれない。まあ、ここにはいないですね。
―大商大に行った時は?
これも決まってました(笑)。(大商大・附属高校どちらも見ていた名伯楽だった)上野先生という方がおられて。僕はどっちかというと大商大じゃなくて、体育の免許とって体育の教師にでもなろうかなと。高校卒業するときで、185cmあるかないかくらいだったんです。そんなにジャンプをするわけではなく。それを上野先生に伝えた所「教師になってどないするんや」。いやいや教えたいと(笑)、言いたんですけど物申せない人なので。
―私も1回だけ上野先生に取材させていただいたことがあるんですけど、“承ります”という雰囲気の方でしたね。威厳があって。
「はい」、「すいません」くらいしか言えないです。「最終的に商大にお前は行きたいのか?行きたくないのか? どちらでもないのか? どちらでもないというか、まだ考えている途中なのか」みたいに言われたんです。行きたくないとも言えないし、かといって行きたいでもないしと思いながら、どちらでもないですと言った瞬間に決まりました(笑)。
―選択肢は3分の2の確率で行く方にしか無かった?
そうですね。残り3分の1も無いに等しかったです。
―大学時代もバレー漬け決定?
決定ですね。
―ポジションは?
高校1年生はミドルでした。高校3年に上がる時のの春高予選はミドルやってました。春高本戦からサイドやってました。で、大学1年のときもミドルやってました。1年の春リーグだけ。秋リーグからサイド。
ーかなりポジションレスだったんですね。
そういうことになりますね。
―中学選抜とかユースとかは選ばれてましたか?
高校選抜で初めて代表みたいなのに選ばれました。大学のときは3年生の時にユニバーシアードに選ばれて。あの時僕リベロだったんです。リベロ制度ができたくらいで、正リベロとしてはとらなかったんですよね、森田さんが。サイドがリベロを回しながらという形でとろうとしてたんですよ、全く不慣れだったのでそんなに出来なかったんですけど、結果的に2位なったので良い経験はしましたね。
―松下電器(当時)に入社はどんな経緯だったのでしょう。
それだけは決まってなかったです。大阪でやりたいというのはあったので。いろいろお話しはいただいたのですけど、松下電器は大企業で知ってる方もおられたし、行こうかなと。結構安易な考えで(笑)。
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