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インタビュー

2015-03-10 12:13 追加

カーテンコール 多治見麻子さん

新しい世界が開けた1年

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3年前、40歳を目前にして選手を引退した多治見麻子。現役にこだわり、限界までプレーを続けた彼女は、引退後、指導者への道を歩み始めた。

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学業とコーチ業

早稲田大学を象徴する建物、大隈講堂。そのすぐそばにあるカフェで多治見麻子と待ち合わせた。久々に会った多治見は、現役時代の優しい面影を残しつつ、ほっそりとして、きれいになっていた。

実は昨年4月から、多治見はこの大学の修士課程に通っている。1年間で修了する課程で、修士論文も概ね書き終えているという。

「バレー一筋できたから、大学で学びたいとずっと思っていたんです」

将来は指導の道に進みたい。そのためには選手としての経験以外にもいろいろな知識と経験が必要だと感じていた。そんな時に、早稲田大学スポーツ科学研究科で必ずしも大学を卒業していなくても入学が認められる制度があることを知ったのだ。

「筑波の院に進んだトモ(吉原知子)さんや自分のように、高卒でもバレーボールの実績などにより入学が認められる制度があることを知り、この機会を生かしたいと思いました。早稲田では2013年度からエリートコーチングコースという1年制の課程ができ、私はその2期生になります」

 

引退してすぐの頃は、バレーボールから少し離れた経験もした。

「引退後、国体があった関係で、東京都三鷹市の職員になりました。国体では裏方仕事も経験し、競技者としての経験しかなかった私が運営側のことを知ることができました」

1年で退職後、大学院に入学。その傍ら、早稲田の男子バレー部の練習のお手伝いをしつつ、V・チャレンジリーグ女子のGSSでコーチもしている。時々、バレー教室などで教えることもある。「早稲田の学生も、GSSの選手たちもすごく素直に話を聞いてくれます。この1年は特に、これまでとは別の角度からバレーを見ることができました。自分が経験していない大学バレーや、GSSのように仕事と両立させながら競技を続ける選手たちと関わることができたのは大きいですね」

 

コートに立てなかったシドニー予選

39歳11か月。多治見が現役を引退したのは、あと1か月で40歳という、2012年5月のことで、最後の所属チームは日立リヴァーレだった。五輪出場経験のある日本の女子バレー選手の引退年齢としては、今のところ最年長記録である。

「この前、Vの会場で久しぶりに荒木絵里香に会ったんです。エリカやメグカナたちの代は私の一回り下で干支が一緒なんですよ。それで、エリカが東京五輪の時は北京五輪の私と同じ年齢(36歳)だよって話しました(笑) エリカは同じミドルのポジションでしたし、ぜひ、頑張って出場してほしいな、と…」

 

多治見は、21年という長い現役生活の中で3度も五輪に出場し、チーム優勝も何度も経験したが、逆にどん底の状態も経験した。

所属していた日立ベルフィーユの実業団リーグ(現チャレンジリーグ)陥落もそうだし、怪我でコートに立てなかったこともある。いちばん辛かったのは、シドニー五輪最終予選で五輪出場権を逃した時、手術を余儀なくされ、12人に残ることすらできなかったことだ。

葛和ジャパンでキャプテンを務めていたころ

葛和ジャパンでキャプテンを務めていたころ

多治見は中学生の頃からオリンピック有望選手に選ばれ、八王子実践高から日立に入団した、絵に描いたようなバレーエリートだった。実際、若手の頃から全日本入りし、バルセロナ、アトランタと五輪を2大会連続で経験した後、25歳で全日本主将になった。シドニー五輪を目指して始動した葛和ジャパンの時である。この時は年齢制限を設け、25歳以下の選手のみで全日本チームを構成したため、その中で最年長で、最も経験豊富な多治見が主将に指名されたのだ。「今考えたら、もっとこうすればよかったのに…と思うこともいろいろあるけれど、若くて余裕がなかったですね。当時はまだ経験の少なかった選手もたくさん入ってきて、どうやってチームをまとめようかといっぱいいっぱいでした」

 

99年のワールドカップでは6位という成績だったが、この時から足首の調子がよくなかったにもかかわらず、続く国内リーグでも無理をしたために、ついに手術をしなければならなくなった。シドニー五輪最終予選、多治見はコートではなく、観客席から全日本の選手たちを見守った。しかし、女子バレー史上初めて切符を逃すという結果に終わってしまった。

「同期のナオ(江藤直美)など、コートにいた選手たちが辛い思いをしていたことはよく知っているけれど、そこに立つことさえできなかった私は…、もうバレーを辞めるしかないと思っていました」

そして、追い討ちをかけるように、日立の廃部が決まったが、引退を考えていた多治見に声をかけてくれた人がいた。

「あなたはまだできる。まだまだ伸びる」

当時、パイオニアの監督だったアリー・セリンジャーである。

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