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インタビュー

2013-08-18 00:10 追加

最後の、スーパーエース (前編)

V・プレミアリーグ 男子 / 全日本代表 男子

「スーパーエース」がポジションの名前だとは、最初に聞いたときはわからなかった。自分で自分のことを「スーパーなエース」というなんて、恥ずかしいなあと思った。中垣内祐一が日本のダントツのスーパーエースだった頃のことだ。大林素子に言わせると、スーパーエースとは「松平先生が私とガイチ君のために作ってくださったポジション名なのよ」とのこと。サーブレシーブを得意とした大林がそれに該当するのかはいまいちわからないが、日本で一時期広く使われていたポジション名としての「スーパーエース」は、サーブレシーブに参加せず、もっぱら攻撃を専門に担当するセッター対角の選手のことだ。今はこの呼び方は廃れ、「オポジット」と呼ばれるようになっている。インタビュー中にも出てくるが、一人のエースアタッカーにボールを集中させるバレーは、もはや時代遅れとなったのだ。
2013年5月6日、一人のスーパーエースがコートを去った。山本隆弘。2メートルを超す長身でサウスポー。この希有なタレントを持つ選手のバレー人生を振り返ってみよう。

1-IMG_2479――バレーを始めたきっかけは? 確かお母様が東レの選手だったからだよね?

確かに母はバレー選手でしたけど、それとは関係ないんですよ。友達に誘われたからなんです。

――あ、そうなんだ。部の人数が少なかったんだっけ。
そうそう。僕が入っても二人しかいなかった。

――じゃあ、バレー人生の最初は結構雑草人生って感じだった?
割と遊び感覚でしたね。

16年ぶりの五輪出場を決めて。この大会のベストスコアラーでもあった。/Photo courtesy of FIVB

16年ぶりの五輪出場を決めて。この大会のベストスコアラーでもあった。/Photo courtesy of FIVB

――思い出はたくさんすぎるほどあると思うのですが、バレー歴を振り返って頂いて、思い出に残っていることベスト3を。
思い出……一番はやっぱりオリンピックでしょうね。後はリーグ優勝もあるし。一番嬉しかったのはそれですね。

――オリンピックというのは、最終予選? オリンピック本戦?
両方ともいろんな事がありましたからね。両方です。

――他にも、2003年のワールドカップでMVPを獲ったり。
あれは、個人的にはよかったんですけど、チームの成績が11位という成績だったんで…。個人競技じゃないんでね。

――チームの成績といえば、2006年の世界選手権で、24年ぶりベストエイトという成績を果たされましたよね。
うーん…。何年ぶりとか何十年ぶりとか言われても、やっぱり結局エイトで止まってるんで。ある程度世界と戦える手応えは感じることができた大会だったかな。でも、エイト止まりじゃしょうがないんで、ベストエイトになったからどうこうっていうのはないです。

――全日本にデビューしたときはどんな感じでした?
そうですね。やっぱりオリンピックに出るというのが夢だったんですけど、そのためにはまず日の丸のユニフォームを着なければその夢も叶うものではなかったので、正直嬉しかったし、オリンピックに出るまでは、このユニフォームを着続けなければいけないなって思いました。

――そのユニフォームを着続けなければならないという思いがありつつも、長い全日本歴の中で2度ほど代表から離脱した時期があったと思います。
うん。

――改めて、それぞれなぜ離脱することになったのか、またそれをどのように乗り越えて復帰されたのか。教えていただけますか。
まず一回目はアテネを逃して、本当に責任を感じましたし、このままバレーを続けてもいいんだろうかということも考えましたし。

――当時のことを思い出されている記事などで読みましたが、現役引退さえも考えられたとか。
はい。代表を引退するだけでなくて、現役引退も、両方考えました。今(当時)の状況じゃ、バレー自体をやれないような気持ちになっていたんですね。でも、いろんな人たちと話していくうちに、やっぱりもう一回頑張ってみようという気持ちも芽生えてきたし、自分自身もこのまま辞めてしまったら不完全燃焼になってしまうと考えるようになったんです。それで、一から出直しっていう気持ちで。その過程があったから戻れたと思います。

ベストエイトを決めたチュニジア戦。/Photo courtesy of FIVB

ベストエイトを決めたチュニジア戦。/Photo courtesy of FIVB

――復帰された年に、先ほど話に出た世界選手権ベストエイトになり、そして翌年には清水という同じオポジット、同じサウスポーの選手が出てきましたが、それについてはどう思いました?
出てきたからどうこうということはなかったですね。その前にも直弘とかいましたし。だからその辺は特に何か思うこともなく、良きライバル意識は持って、切磋琢磨してやってこれたと思います。調子のいい方が出るというのは当たり前のことですからね。

――2007年には出場権は獲れませんでしたが、2008年の最終予選で16年ぶりのオリンピック出場を決めることができました。しかし、残念ながらオリンピック本戦では全く勝つことができませんでした。
うん。

夢舞台のオリンピック本戦はしかし、苦い思い出の場ともなった。/Photo courtesy of FIVB

夢舞台のオリンピック本戦はしかし、苦い思い出の場ともなった。/Photo courtesy of FIVB

――その辺り振り返ってみていかがですか。
16年間出てないオリンピックについて、「今回はどうしても出場しなければならない」という意気込みで最終予選を戦って、正直、最終予選にピークを持っていきすぎたというのはあると思う。でもあそこで、オリンピック本戦に向けての調整の方をとっていたとしたら、オリンピックの切符がとれたかっていうととれなかったと思うし。ただそのオリンピックまでの調子を維持する体力、気力というのが、当時の僕を含めた選手全員がなかったのかなというのを、今思えば感じますね。

――あのとき、植田監督が「若手を育てる」と言ったのはいつだったんですか?
いつか細かいことは忘れましたけど、僕らもネットを使いますんで、そういう発言はリアルタイムで見ることができたんですね。まだ一次予選を突破できる可能性が残っている時点だったのは間違いないです。

アテネ五輪出場権を賭けたOQT、中国戦をフルセットで落とし、結局切符は獲得できなかった。/Photo courtesy of FIVB

アテネ五輪出場権を賭けたOQT、中国戦をフルセットで落とし、結局切符は獲得できなかった。/Photo courtesy of FIVB

――ちょっとさかのぼるんですけど、田中幹保さんがアテネ五輪の出場権を逃したときに、隆弘君が横にいる記者会見で、「自分はオリンピックに出場させることはできなかったけれど、山本隆弘というエースを見いだして育て上げたことは自分の誇れる業績だと思っている」ということを言われましたが。覚えてます?
覚えてない。

――あのときは、他の人の言葉は耳に入らなかったかも知れないね。今それを知ってどう思う?
最初の方で言ったように、「夢」であったオリンピックを「目標」に変えさせてくれたのも幹保さんが選んでくれたからだし。それまではオポジットというポジションをやってなくて、幹保さんにお前オポジットをやれと言われてやり始めた。そういう意味で、今の自分があるのは幹保さんのおかげでもある。監督の任期が終わってからも色々話しかけてくれたり、気にかけてくれているので、すごく感謝していますね。

――多分幹保さんにとっては「幹保さん-ガイチさん-隆弘君」という「エースの系譜」というのが頭にあったと思います。隆弘君にとって「エース」というのは。
やっぱりエースと言われているからには、どういう状況であれ、苦しい戦いであっても、楽な戦いであっても、周りがどんなに倒れていても、自分だけはしっかりと立っていなくてはならないという思いは強かったですね。ポジション柄、苦しい場面でも決めなければならない。だからしっかり決めるところで決めて、チームの流れをつかむというか、持って来るようにしなければならないというのはずっと思って来ました。

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