全日本バレー、Vリーグ、大学バレー、高校バレーの最新情報をお届けするバレーボールWebマガジン|バレーボールマガジン


バレーボールマガジン>コラム>日本バレー界の巨人・松平康隆を偲ぶ

コラム

2012-03-09 21:04 追加

日本バレー界の巨人・松平康隆を偲ぶ

3月9日、東京青山葬儀所で、昨年の大晦日に亡くなった松平康隆氏のお別れの会が開かれた。大古誠司、森田淳悟、木村憲治らに故人を偲ぶコメントをもらった。

Others

3月9日、東京青山葬儀所で、昨年の大晦日に亡くなった松平康隆氏のお別れの会が開かれた。

 

松平康隆氏・お別れの会

松平康隆氏・お別れの会

「東洋の魔女」として東京五輪で金メダルを獲得し、国民的熱狂を生んだ全日本女子に対して、全日本男子は、地の利もあって銅メダルを獲得したが、国民からは顧みられないままであった。日本協会の祝勝会でも、手違いで男子の方は呼ばれないままであった。

 

東京五輪の時はコーチだった松平氏だが、その後監督に就任。屈辱をバネにして、4年後のメキシコ五輪では銀メダル、8年後のミュンヘン五輪ではついに金メダルを獲得する。

 

金メダリストの一人、森田淳悟氏に松平氏のエピソードを伺うと、「1967年、武者修行のために海外遠征を行ったのですが、当時は経済的に非常に厳しく、飛行機での移動は出来ませんでした。ですから、横浜港から当時のソ連のナホトカ港まで、三等船室で船旅だったのです。悪いことにちょうど台風にぶつかってしまい、しかも、船と台風が一緒の方向に走っていくような感じになってしまいました。私は船酔いに弱い体質で、完全に胃をやられてしまって、バレーを出来るような状態ではありませんでした。そこで、松平さんが『モンタ、行けるか?』と質問され、私は『いや、とてもだめです』と答えたのです。これでその日の試合のベンチからは外れたなと思ったのですが、試合が始まってみたら、何のことはない、スタメンでした。もちろん途中で交代せざるを得ませんでしたが、やはりバレーに関しては大変に厳しい方でしたね」。

 

やはり金メダリストの一人、大古誠司氏は、「ヨーロッパ遠征に行ったとき、きつい連戦でみんな参っていたんだ。そこで、松平さんは、『ドイツに着いたら、バイエルンビールを思う存分飲ませてやるぞ』とみんなを鼓舞した。我々は喜んで、それは楽しみにして連戦をこなした。ところが、ドイツに着いて、レセプションが始まってもビールが出てこない。それで、私と森田と横田が、腹を立てちゃったんだね。あんなに楽しみにしていたのに、というわけで。で、会場のみんなでジェンカを踊り出したんだけど、我々3人だけはへそを曲げて踊らないでいたんだ。テーブルの上に顔を突っ伏してね。どんどんみんなが踊り出すんだけど、3人でボイコットし始めたものだから、抜け駆けで参加しますとは言えなくなっちゃって、とうとう最後までボイコットしてしまった。

このときばっかりは、『どうせ怒られるんだから、もう日本に帰っちまおうぜ』『……でも、俺たちのパスポート、松平さんが持ってるんだぞ』『……』と3人でひやひやしたんだけど、松平さんは遠征が終わるまで一言も何にも言わなかった。遠征最終日の香港で、『おい、大古、ちょっと来い』と、一人ずつ呼ばれ、説教をされたんだ。『お前もエースならば、つまらんことでもめ事を起こすな』という感じでね。でも普段が怖いから、そんなもんで済んでよかったと胸をなで下ろしたもんだよ」。

「それから、松平さんはお酒を全く飲まなかったんだが、よく自宅でもらい物の高いお酒を飲ませてくれたね。だけど、あるとき、『お前たちが酔っぱらっていったことを、俺は全部しっかり覚えているんだからな』と言われて、さーっと酔いが醒めて、その後はウイスキー一本空けても松平さんの前では酔っぱらわなくなったね。まあ多分、『酒が入ったくらいで乱れるんじゃないぞ』ということを言いたかったんだろうけど」。

 

同じくミュンヘン金メダリストで今はVリーグ機構の会長である木村憲治氏は、「アニメ『ミュンヘンへの道』は、悪い気はしなかったけれども、同時に、それは虚像なのだという気持ちもありました。また茶の間の大きな期待は日に日に感じていたが、それに応えると云うよりは自分自身の欲望(世界一)の為に集中しようとしたことを記憶しています」と、当時を振り返る。そして、「松平さんの『おもい』は今や判りませんが、バレー人気の復活をさせることがそれに応えることであることは間違いないと思い、今後も全力で頑張る決意です」と、Vリーグの発展、バレーボールの発展に努めることを表明した。

 

自らを「工場長、宣伝部長、営業部長を兼任した」と自称しただけあって、監督としての功績も輝かしいが、バレー人気の盛り上げ、リーグや国際試合の興行などにも大いに努めた。

 

著書「負けてたまるか」の裏表紙には、大きな字でこう書いてある。「私はオリンピックの舞台で銀メダルと銅メダルはとった。もう銀も銅もいらない。いまから十年前には世界のクズといわれた日本男子バレーの、今年は勝負の年だ。八月のミュンヘンオリンピックでは、金をどうしてもとりたい。しかし、勝つことも大切だが、その前にもうひとつ、勝利をわがことのように喜んでくれる人を一人でも多く持つことだ」。これほどファンを大切にすることを痛切に感じていたスポーツ人はいないのではないだろうか。

最後の言葉は、「バレーボール一筋に人生を終えられて非常に幸せでした。自分の人生でやりたいことは全部できましたし、思い残すことは何も無い人生でした」というものだった。大往生といって良いだろう。お別れの会には約1000人が参列し、その死を悼んだ。

 

文責・中西美雁

>> コラムのページ一覧へ戻る

同じカテゴリの最近の記事

コメント

山田太郎 [Website] 2012.04.20 13:00

松平康隆さんのことをていねいに紹介してくださり、とてもうれしいです。40年近く前に華やいだ方ですが私にとって大切な大切なヒーローです。中学1年生に松平康隆さんとメディアをとおしてめぐり会いました。以来、彼の教えに導かれて今日まで生きてきました。ミュンヘン五輪の感動、そして彼の言葉、生きざまに50代の今日まで支えられ、励まされ感謝でいっぱいです。私自身は横田選手のファンでしたが、冷静に振り返れば、松平監督のつくった横田選手にあこがれていた…実は松平さん自身を心の師と仰ぎ追い求めていたのだと思います。松平さんの厳しさ、本物を見極める確かさ…日本人の潔さが失われつつある中であらためて彼のすがすがしさに心があらわれます。中西美雁さん、本当にありがとうございました。

Sorry, the comment form is closed at this time.

トラックバック