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2016-07-14 09:25 追加

海外女子バレーのすゝめ第2回 ありがとう、監督!― ニエムチェク監督がポーランド・バレー界に遺したもの

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2016年6月2日、元ポーランド女子代表監督アンジェイ・ニエムチェク氏が、肺がんにより死去された。ポーランド男子チームが、日本開催のOQT(世界最終予選)でリオ五輪出場を決めた、まさにその日のことだった。 2日後の6月4日、東京体育館で行われたポーランド男子の試合前、会場からニエムチェク氏へ黙祷が捧げられた。ポーランドメディアが一斉この悲しいニュースを報じた。今や日本以上にバレーボールが人気のポーランドで、国中のファンや関係者が彼の死を嘆いているという。あまりに偉大な指導者を、ポーランド・バレー界は失ってしまった。

ポーランド女子はいつも日本と激戦を交え、歴史に残る数々の名試合を生んできた。女子だけでなく男子チームも日本国内で非常に人気があり、「バレーボール・ポーランド代表」という言葉は、もはや一つの有名ブランド。国際大会にいなくてはならない存在となった。ポーランド・バレー界の礎を築いたニエムチェク氏について、可能な範囲で取り上げたい。

アンジェイ・ニエムチェク(Andrzej Niemczyk)

アンジェイ・ニエムチェク(Andrzej Niemczyk)

1944年、ポーランドのウッチに生まれる。 タバコ、ウイスキー、ギャンブルが大好きで、結婚も三度したという。豪快に人生を謳歌したのだろう。 ニエムチェク氏は1975年から77年にかけてポーランド女子代表監督を務め、ドイツ、トルコでクラブチームの監督を歴任。2003年、ポーランド女子代表監督に再任した。ヨーロピアン・ロケットと呼ばれ恐れられた大砲マウゴジャータ・グリンカやカタジナ・スコブロニスカといった有力選手を揃え、2003年の欧州選手権で初優勝。同年に日本で開催されたワールドカップに出場した。柳本晶一監督が全日本女子の復活請負人と言われていたように、ポーランド女子の復活請負人はこのニエムチェク氏だったと言えるだろう。2004年のアテネ五輪は欧州予選で敗れ出場できなかったが、ポーランド女子の鮮烈な復活劇に、世界は衝撃を受けた。

13689532_1052766981443550_813856650_n2005年、ニエムチェク監督はリンパ節に腫瘍を患いながらも治療により克服し、代表監督を続投。その年の欧州選手権でも優勝し、連覇を成し遂げた。この復活劇はポーランドのバレーボール・ブームに火を付け、女子代表は”The Golden Girls”と呼ばれることになる。 

2003年、2005年の欧州選手権で連覇を成し遂げた しかし翌2006年、ニエムチェク監督は成績不振を理由に辞任。そのとき、チームの核であったスコブロニスカは嘆いた。「私たちのチームを作り上げたのはニエムチェク監督。辞めないでほしい」と。

2008年、ポーランド女子は北京五輪に出場した。当時の監督は、現イタリア女子代表監督のマルコ・ボニッタ氏。ポーランド女子は1964年の東京五輪、1968年のメキシコシティ五輪に出場し、2大会連続で銅メダルを獲得したが、その後のオリンピックには出場さえできずにいた。このため、2008年に北京五輪へ出場したのは40年ぶりの快挙だった。 しかしポーランドメディアは「男子が世界のバレーをリードしている一方、女子は2006年にニエムチェク監督が退任してから低迷し続けている」と言っている。2年後、女子代表が40年ぶりの五輪出場を成し遂げたにもかかわらず。

北京五輪出場を決めたときの監督はニエムチェク氏ではなかった。だが彼らにとっては、自国代表が40年ぶりのオリンピック出場という快挙を成し遂げた”The Golden Girls”を育て上げたのは、他ならぬニエムチェク監督の功績なのだ。 ニエムチェク氏の死を受けてポーランドメディアは「娘たちは父を失った」とも報じている。スコブロニスカやポドレッツ、シリバ、ベウチク、グリンカ、ロスネル、リクトラスなど、ニエムチェク監督のもと育った娘たちが、揃って葬儀に参列した。 しかし葬儀に参列できなかったもう一人の、ニエムチェク監督の大切な「娘」がいた。

それはミドルブロッカーとして活躍したアガタ・ムロズ。

アガタ・ムロズ(Agata Mroz)

アガタ・ムロズ(Agata Mroz)

 

ムロズは17歳で白血病を発症し、治療を受けながらバレーボールを続けた。下部リーグでプレーしていたところ、2003年にニエムチェク監督によって才能を見出され代表入り。同年、ポーランドは欧州選手権で初優勝を飾り、直後、日本で開催されたワールドカップに出場した。2005年には欧州選手権で連覇を成し遂げるなど、ポーランドの黄金期を支えた一人だった。 しかし2007年に病状の悪化により引退。翌2008年に骨髄移植の手術を受けるが、6月4日、感染症により26歳で亡くなった。移植した骨髄が動き始めるまであと数日だったという。ポーランド女子が北京五輪出場権を獲得してから2週間後のことだった。 ムロズの死はポーランド国内に大きな衝撃を与えた。ニエムチェク氏は彼女の死を思い出し「あのとき、酒を浴びるほど飲んだ。彼女の代わりに自分を死なせてくれと神に願った」と話した。一緒に代表として戦ってきた「娘」の死を受け入れられるはずがない。ニエムチェク氏がどれだけ選手のことを思っていたか、この発言から感じ取れた。

選手たちを本当の娘のように可愛がっていたニエムチェク氏。それは、あるインタビューでのニエムチェク氏の発言にも見て取れる。 「選手は自由にやらせたい。それぞれ個性があるし、それを無理に支配するのはどうかと思う。例えばボーイフレンドがいる選手。1年の3分の1も家を離れると、もちろん心労も溜まる。そうするとお互いを理解し合うのは難しくなる。選手の精神が崩壊してしまうことにもなりかねない。ボーイフレンドに会いたいときはいつでも会えるように、寝たいときは寝させる、お酒を飲みたいときは飲むように…。休みの日はメンバーにオシャレをさせてディスコに連れて行くこともあった。でもトレーニングでは、要求することはしっかり要求する。それとこれとは別の話だからね」 多くの選手がニエムチェク氏について「とても気難しい人」と言っていたように、選手とぶつかり合うことも多かった。大会中に突然グリンカと衝突し、登録抹消したこともある。

だが、むやみに厳しいだけの監督なら、選手から慕われることなどありえないはずだ。 娘たちに対して、厳しさを持ちつつも、優しさにあふれた指導者だったからこそ、選手・ファンから愛される存在であり続けたのだろう。葬儀の際、スコブロニスカが涙に声を震わせながら語った。 「彼は指導者として絶大な権威を持っていた。同時に、彼は父のようであり、友達のようであり、おじのようであり、そして先生のようだった。バレーボールは彼の人生そのもの。バレーに情熱を注ぎ、心から愛していた。彼の情熱や思いが、再び誰かに引き継がれていくことを祈っている。ありがとう、監督!」 彼女の言う、ニエムチェク監督のバレーボールに対する情熱や思いは、ポーランドの選手・国民のみならず、ポーランドチームを愛する世界中のファンに受け継がれていくことだろう。

第1回 バレー新興国トルコに見る、選手と観客の関係
http://vbm.link/11284/

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