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バレーボールマガジン>インタビュー>豊田合成 高松卓矢「僕のバレー人生は、出会いに恵まれているんです」(後編)

インタビュー

2017-10-31 17:38 追加

豊田合成 高松卓矢「僕のバレー人生は、出会いに恵まれているんです」(後編)

SV男子

――中高で思い出に残っていることは?

中学校の思い出はさっき言った、転校してバレーボールを再開したこと。高校はいっぱいありますね。僕、運がいいんですよ。すごくいい人と出会えるんです。それを言うと父が「それは俺のおかげだ」って威張るんですけどね(笑)。なんでも父がすごくいい画数で名前をつけてくれたからなんだそうです。「卓矢のやを也じゃなくて弓矢の矢にしたのは画数が良かったから。だからお前が運がいいのは俺のおかげだな」って、ずーっと言ってるんです。本当に苦しいときにいい人に出会えるんです。

高校のときは、1年生のときに腰を疲労骨折して。3ヶ月位バレーはできないという診断でした。1年生の夏っていう大事なときに、そんなにバレーができないなんて…と、打ちひしがれていたんです。大葉整形外科という大分のドクターで、「私についてきたら1ヶ月で復帰させてあげる」と言ってくれて。すごく姉御肌な先生でした。「そこまで言ってくれるなら、ついていこう」と決めました。学校や家があるところから1時間半くらいかかるところの病院だったのですが、学校が終わったら、1時間半かけてその病院まで行きます。そこで2時間位トレーニングをする。8時くらいまでやって、そこから帰宅して10時位にご飯食べて寝る。

そこでしっかり教えてもらったおかげで、柔軟性も上がり、体幹もしっかりしてきて、腰の具合も良くなりました。ジャンプ力の土台もそのときについたと思います。逆に腰を痛めたから、自分の体ときちんと向き合うことができた。そういう振り返りを若いときにできたのはよかったと思っています。それで1ヶ月で復帰することができて、2年生になってから、新しく赴任されてきた先生が僕の高校時代の恩師になる柿原先生だったんです。日体大系列の先生で、すごくいろんなツテがありました。どんどんあちこちに練習試合や合宿を組んでくださって、そこで飛躍的に経験を積むことができたんです。もし柿原先生が来られなかったら、そんなにたくさん対外試合や合宿はできなくて、バレーの経験値も伸びなかっただろうなと思います。春高で3位にもなれましたし。またいいときにいい先生に出会えたな。

柿原先生が日体系列だったので、ぜひ日体に行ってくれ、といわれ、森田淳悟先生にも来てくれと言っていただいて、行くことになりました。でも、本当に大学時代はきつかったですね。「なんで俺、こんな大学来ちゃったんだろう」と思ったこともたくさんありました。

でも、今から思えば、日体大に入ったことで、春高3位の天狗の鼻が折れて、自分の人生でプラスになった大学時代でした。自分はちょっと楽しい方に流れちゃうくせがあるので、一人暮らしとかしてたら、楽な方に流れちゃっていただろうなと。そのときにしっかり天狗の鼻をへし折ってもらったことがよかったなと思います。いま東レにいらっしゃる米山裕太さんが僕が1年のときの4年で、ビシビシしごいていただきましたね。

――米山さんがビシビシ…。なんだかイメージがつかめません。

裕太さんだけじゃなくて相澤さんもいますし、日高さんもいましたし、(米山)達也さんもいましたし、そういう面でも考えると、先輩方に恵まれた、いい大学に行けたなと思います。
下級生としての仕事や、先輩後輩としての礼儀が身につきました。

――米山さんは怖かったですか?

そりゃあもう! でも、あくまでもそれは大学の先輩としての怖さ、厳しさでしたけどね。バレーをやってるときは関係ないですけど。裕太さんには本当に色々教えていただきました。

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