2020-12-30 15:25 追加
カーテンコール 東京五輪金メダリスト・東洋の魔女のエース 井戸川(谷田)絹子さんを偲ぶ
Others / 全日本代表 女子
回転レシーブについても「いろいろな説が出回ってるんですけど、先生がとにかく寝転んで素早く起き上がれ!とだけおっしゃって。子供の玩具の起き上がりこぼしを見て思いついたと書かれている記事もあるようですね。実際は『起き上がりこぼしみたいに』とは言われなかったです。みんなでゴロンゴロンと寝転んでは、ぱっと起き上がろうとする。先生に『手本を見せてください』とお願いしても『俺はできるからええのや。お前らがやれるようになればええのや』の一点張りでした(笑)」。
興味深い話ばかりだったが、印象に残ったのは次のエピソードだ。
ヨーロッパ遠征に行ったときに、出てくる食べ物が決して美味しいものではなかった。ボソボソしたパンに薄いスープだけ。こんなもの食べられないと音を上げる選手たちが多かった。谷田さんは何でも食べられる方だったが、それでも発売されたばかりのインスタントラーメンをスーツケースいっぱいに持っていって食べていたという。それが、どんどん試合に勝っていくうちに、出てくる食事が良くなったという。本当はおいしい食べ物もあったが、出てこなかった。貧しい極東のチーム、という扱いだったのが、どんどん勝っていくうちに白いパンもジャムも出てきた。結果的に22連勝という数字を打ち立てて、「東洋の魔女」と呼ばれるようになったが、「勝つということは、こういうことなんだ」と痛感したという。
これが1961年(昭和39年)のことだった。
翌年、世界選手権が開催されて、日本は宿敵ソ連を打ち破って優勝した。ここで彼女たちは引退するつもりだった。「婚期のこともありましたし、みんな世界一をやり遂げたんだからもういいだろうと思っていました。ですが、東京でオリンピックが開催することが決まり、急に私達にオリンピックにも出場するようにという声が出るようになったのです。最初は、『東京でオリンピックをするんだね、すごいね』という感じでしたが、日本バレーボール協会の偉い人たちが大松先生のところに何度も通ってきたり、日本中からたくさんのお手紙をいただきました。その中には『あなた達はもう十分頑張った。東京オリンピックには出なくてもいい』と言ってくださる方もいれば、『絶対に東京オリンピックに出て、金メダルをとるべきだ』というものもありました。
私達はすごく悩みに悩んで…。とても一人では決められませんでした。集まって、だけど大松先生は何も言われなかったです。自分が言えば、それで決まってしまうということがわかっていたからでしょう。ずっと頭を寄せて話し合って…。最後にキャプテンの河西さんが『私はやります』と言われて、みんな『では私もやります』と。それで決まりましたね」。
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