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インタビュー

2022-03-30 11:44 追加

ザムストPresents“Vの肖像”vol.6 大宅真樹「大村工業の恩師伊藤先生からは、セッターとしてのあり方を教えられた」前編

大宅真樹インタビュー

V1リーグ 男子

バレーボールをプレーする人なら誰もが知っているザムストがお送りする“Vの肖像”。第6回は昨季覇者、サントリーサンバーズの司令塔にしてキャプテンの大宅真樹選手に登場していただいた。前編では、バレーを始めたきっかけから、長崎県立大村工業高等学校時代の恩師の思い出、職業としてバレー選手を選ぶまでの道のりをうかがった。

大宅は両親がママさんバレーや社会人バレーをしていたのによくついていっていたため、自然と小学校に入学するときに、バレーボールのクラブに入部した。最初の1、2年の頃はレシーバーがメインだったが、3年になってからスパイクも打たせてもらえるようになった。それからずっと中学3年まではスパイカーとしてプレーしてきたが、JOC選抜のときにセッターを経験。大村工業にもセッターとして声がかかり、進学を決めた。

大村工業といえば、長崎の伝統ある強豪校。北京五輪出場のときにトスを上げていた朝長孝介がコーチとしていることが知られているが、朝長の赴任は大宅が3年のときで、新任でもあったため、指導はほとんど受けていないという。「今から思えば、朝長さんにあんなことも聞いておけばよかった、こんな事も教えてもらいたかったと思いますが、そういうタイミングでした」。だから、彼の恩師とは伊藤孝浩監督なのだ。大学進学にも、サントリーに入社してからも相談に乗ってもらってきた。

大村工業時代の思い出を尋ねても「ずっとバレーボールばかりしていたので…楽しい思い出は…あまりないかも…」と苦笑する大宅。「きつい、つらい、もっと言っちゃえばやめたい」と思うことも少なくなかったそう。それでも先輩たちが春高で優勝する姿を見て、「自分もああいう経験がしたい」という思いを持つようになった。「僕も春高を経験して、大村工業に行かなかったら経験できなかったことが経験できているので、終わってみたら本当に行ってよかったと思います。今また大村工業に戻りたいかと言われたら、普通に戻ってもう一回伊藤先生にカツを入れてほしいなと思うこともあります。いい思い出として具体的なことはあげられないけど、そんな感じです」。
2年生のときに先輩のリベロが怪我をした影響で、その1年だけリベロを務めた。それ以外は今までずっとセッターとしてチームを牽引する。

伊藤監督の指導は、技術というより一人の人間として成長させてくれるものだった。「先生からはセッターとしてのあり方を教えられました。ずっと言われてたのは、人を活かすポジションなので自分があまり前に出すぎないようにと。特に僕はスパイカー出身だったので、『目立つな』とよく言われていましたが、それがやっと大学の3、4年くらいからわかってきた。その時は言われて『なんで』と思うこともあったんですが、バレーを続けてきて、こういうV1のレベルでプレーし始めてからはすごくわかるようになりました。今になって伊藤先生の指導は生きているなと思います」。

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