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インタビュー

2014-08-25 12:12 追加

加藤陽一 地上の星

V2/V3 男子

加藤陽一といえば真っ先に思い浮かぶのが、SPEEDの歌う98世界選手権のテーマソングとともに高く舞う美しいスパイクフォームだ。当時加藤に「きれいなスパイクフォームだね」と言うと、彼は「今日はちょっとジャンプし過ぎちゃいました」と少しはにかみながらも誇らしそうにしていたことを思い出す。 

加藤、西村、朝日が大ブレイクした1998年の世界選手権にて

加藤、西村、朝日が大ブレイクした1998年の世界選手権にて

 

―話が前後しますけど、筑波大学在学中に非常に鮮烈な全日本デビューをされましたが、98年世界選手権の時のことは覚えていますか?

覚えています。全日本の選手たちと一緒に練習するのが楽しみでしょうがなくて。その頃中垣内(祐一)さんとか真鍋(政義)さんもいましたし、青山(繁)さんとか、そういったスーパースター達がいる中で自分も一緒に練習できる、そして自分の全力のスパイクがブロックされたりレシーブされたりするその楽しさ。今までだったら決まっていたボールが拾われたりして壁を感じられた瞬間というのは、逆に全日本に選ばれた実感を感じました。

自分もどんどん壁を越えようとして努力しましたし、話を聞いたりされたりする中で、早く本当に全日本に入りたいという思いがどんどんどんどん積み重なって、最終的には世界選手権のメンバーに選んでもらったので、なんとか活躍してやろうと思ったんですね。本当にプラスの事しか考えていなかったですね。その頃は。

―最初に全日本に選ばれたのはワールドリーグでしたか?

ワールドリーグからグラチャン。で、世界選手権に行ったと思います。

―世界選手権でものすごく人気が爆発しましたけども、その当時のエピソードなんかありますか?

SPEEDがそのCMキャラクターになっていたのでその人気もプラスして。
こんな小さい選手が大きな男の人たちと戦っていくというのがよかったのでしょうね。もちろん青山さんみたいな先輩もいましたけど。あの大ブームの中で、朝日(健太郎)さん、西村(晃一)さんという陽の当たる人たちと、めぐり合わせで一緒にプレイ出来たという事は運命だったと思います。自分は自分のプレイをして、表に出る人たちは表に出てもらってという役割分担ができていました。自分としても楽でしたし、自分はバレーボールに専念できる環境を作ってもらったと思います。

99ワールドカップで筆者が手がけたムック。表紙に登場してもらった。

99ワールドカップで筆者が手がけたムック。表紙に登場してもらった。

―99年ワールドカップもそうでしたか?

そのチームは本当に仲良かったですね。僕ら年齢が下の方なので、洗濯があってもミーティング待っててくれたり。技術とかちょっと海外から劣ったとしても、チームワークで日本がなんとか勝っていこうという。崖から突き落とされるようなそういう感覚ではなくて山を本当に1人ずつ登って行こうというチームだったなと思います。

―迎えたシドニー予選ですけども、人生のエポックメイキング的な事があったと思うのですがそのあたりはどうですか?

まずは日の丸を背負っている選手としての目標だったりとかプレイの技術を向上させたり、それをずっと積み重ねるにつれて、やっぱりオリンピックという日本代表としての達成しなきゃいけない目標というのにかられるわけですね。その中で最初に挑戦したシドニーで惨敗してしまって、それを振り返るとやっぱり自分が日の丸の選手としての位置だけでは何かもどかしい所があって、階段を上るように全日本の道を歩んできた中で、最上階に来てしまった。屋上に来てもう何もない状態で下の子達がいるという状況だったので、そうなると隣には高いビルがもっとあってそこはやっぱり世界という所だと思った。世界を見るようになったのはオリンピックに挑戦するということがきっかけですね。

―シドニーのあとに、それまでにも真鍋さんとかが行ってましたけど、全日本の主力メンバーが海外に行くという男子バレーボール界にとって非常に大きな出来事があったのですが、その時はなぜそうしようと思ったのか、どんなハードルがあったのか。

当初やっぱりメジャーリーグとかサッカーのセリエAに行く選手達も疑問視されたりするという環境だった。協会の方もルール上、国内のチームに所属していないと全日本には選ばれないようになっていたんです。なかなかルール改正してもらうというのは難しい状況でした。全日本をとるのか、海外でやりたいという自分の欲求をとるのかということを当時監督だった田中幹保さんといろいろ話して、やっぱり加藤が必要だということを言われて、田中幹保さんがなんとか協会を説得してくれるということになりました。まずトライアウトを受けて、それが全部合格したと伝えた事で、協会の方もやっぱりどうしても加藤がほしいと言っているからそこでルール改正をしてくれるということで、海外への一歩が踏み出せた。

もちろん東レにしてみれば当時人気がある選手を手放したくないということもありましたけど、やっぱり東レもその時点で日本だけではなく世界のマーケットに東レの技術だったり製品を海外に売り込むというそういった戦略もある中で自分自身バレーボール選手として海外に行くというところも会社としても納得はしてないかもしれないけど、目標は一緒だったのでそこをうまく部長だったり取締役の方へ説明をして、バレーボール界の為にいくんだと、その為に東レから出すんだというメリットはあると思うので、それは他の選手には出来なくて東レで育った加藤だから海外に行くという選択肢そして後押しができる会社なんだということを自分自身も感じながら海外へ出たという思いはありましたね。

トレビゾでの加藤

トレヴィーゾでの加藤

トレヴィーゾを選んだのは、当時世界で一番レベルが高いチームだったから?

それは迷いましたね。試合に出られるチームか、レベルの高い優勝争いのできるチームというのは迷いました。最終的には外国人枠の問題が一番ありまして、トレヴィーゾは外国人は僕を含めて3人しかいなかったので外国人枠が使えた。そしてイタリアナショナルチームのメンバーがほとんど入っているということでBチームに入っていても毎日イタリアの代表と練習試合をやっている状況というのは、僕自身すごく憧れでしたし、もちろんチャンピオンになる回数も本当に多いチームで、欧州チャンピオンリーグだったりヨーロッパ選手権、そういったイタリア国内だけじゃなくてヨーロッパ全土の大会に出れる視野の広いチームだったので。本当に生活は厳しかったんですけど、トレヴィーゾを選択して間違いはなかったなとは思いますね。

―日本でもらっていたサラリーより激減したんですよね?

もう全然減りました。コンビニでバイトするぐらいの(笑)。

―それでも行きたかったんだ?

お金じゃないなと思って。お金は必要ですけども、自分自身が海外へ行って高いレベルを日本に持ち込んで若い選手達が日本だけじゃなくて、世界へ目を向けてくれるような、そういった旗を振って行きたいなと思ったんです。それで周りの若い選手達が海外に出て、加藤さんがやってきたことは凄かったなと思えれば、自分にそれが後に跳ね返ってくるんじゃないかなと。生活する上では苦しかったですけど、バレーボールとしては充実した生活でした。

ここ十年以上、私の中で、加藤にずっと尋ねたかった質問があった。その間に何度も彼に取材はしてきたが、それについては触れられないままだった。引退記事という一生に一度しかないこの機会に、それをぶつけてみることにした。

―私がイタリアに取材に伺ったのは、加藤さんが若干出場機会に恵まれなかった頃でした。あの時、私自身は誠心誠意加藤さん本人のためになるようにとのみ考えて記事を書いたのですが、ファンからは賛否両論でした。あの記事を読んで、怒ったりしました?

それはないですね。書く人が見たこと、感じた事を書くのは当然のことだと思います。そういう風に見えるのかというようには思いましたけど。

十数年ぶりに胸のつかえが下りた気がした。彼はそれまでと変わらぬ、穏やかなほほえみを浮かべていた。  

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