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インタビュー

2014-02-03 19:07 追加

カーテンコール 熊田康則さん

元全日本・富士フイルムのエース、熊田康則さんの現在

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1-IMG_2567今回のカーテンコールは、現在中央林間駅の近くで居酒屋「熊の隠れ家」を切り盛りする熊田康則さん。言わずとしれた元全日本のエースであり、富士フイルム黄金時代の立役者の一人でもあった。

――今の若いファンは「あの熊田康則」と言っても分からないと思うので、まず全日本の思い出話などから。
思い出話と言えば何だろうね。一番の思い出は全日本というより、神戸ユニバーシアードで優勝したことかな。あとは大きく言えばオリンピックに出れたこと。

――熊田さんと言えば大脱走が有名ですが。
あれはもう時効だからね。お客さんも知ってるもん。

17,18歳で全日本に入って、ずっと下積みをやって、洗濯でしょ、球拾いでしょ、練習はみんなの二倍。つらかったね。高2で研修生、高3で全日本に入って、それでずっとだもんね。下積みが続いて。僕と藤田(幸光)さんだったの、下積みが。で、ずーっと人の3倍ぶっ飛ばされて。今思えば、長崎の稲佐山旅館で合宿したときなんか本当に地獄だったね。中野さんが監督、スタッフが大古さん、南さん。練習もしたし、精神修行もさせられたし。いい加減な僕だったからね、まじめにね。楽しい思い出なんかなかったよね。海外行ったって同じような猛特訓があるし。観光はできたけど、それどころじゃないんだもん。頭は「あー、あした練習か」でいっぱいだから。

1-131226_033627一回、全日本インカレと海外遠征が重なっちゃったのよ。僕だけ成田空港からルーマニアに行く便があったの。みんなはルーマニアで大会合宿やってるのね。で、うまくいけばルーマニアまですっと行けるはずだったのに、ソ連の飛行機が成田で止まっちゃったの。それで一泊したはいいんだけど、当時携帯電話なんかないから伝えようがなくて。向こうは知っていたらしいんだけどね。飛行機が止まって僕が遅れてくるっていうことは。もうそれでスケジュール組んであるから、一つ遅れたらもう次のつなぎに行けないのよ。

それでソ連から連絡が入って、シェレメンチェボ国際空港行ったら、誰かが待ってるからおまえはジャージを着て出てこいっていわれたの。で、ジャージ着て出て行ったら、周りの人がどんどんいなくなる中で、なんかマフィアみたいな、黒い帽子に黒いコートの男の人が近づいてきて、ロシア語で「こっちこい」みたいなことを言うのね。この人がバレーボール協会の人? と思いつつついていったらやっぱりそうだったの。ジャージを着ていたら当時のソ連は「スポーツコミュニティ」っていうのがあって、スポーツ選手だったらただでご飯が食べられた。で、ただでご飯を食べさせてもらって、1日半くらいいたのかな? 結局怖くて飯も食わずに.外にも出なくて閉じこもっていて。全日本のトレーナーの人から電話がかかってきて、明日着くとき迎えに行くからって言われて、ルーマニアについて迎えの人たちを見たときは涙が出そうになったね。それくらい怖かった。当時海外旅行なんて一人で行ったことなかったし、東側の国だったしね。大学1年の時かな?

――せっかくただで食べられたのに、食べにいくのが怖かったなんて、結構繊細なんですね。
そうよ。 デリケートなのよ、俺。

――仲がよかった選手は?
やっぱり藤田さんだね。今年の3月くらいに鳥取の方でバレー教室があるっていうんで呼ばれて懐かしかったね。いろいろ面倒見てもらったよ。

――前、元日本鋼管のトレーナー(現・中央大学)の菊池さんに聞いたんですけど、古川さんが入院して、肝臓が悪かったのに、熊田さんが……。
そう、ビールもってお見舞いに行ったんだよ(笑)。古川さん、お酒飲めないんだって? はい、お見舞い! って。

――古川さんとは喧嘩もしたんでしょ?
喧嘩なんかしてないよ。ただね、古川さん、若い全日本になったときに、上についちゃったんだよ。で、僕らは眞鍋が下でしょ。だから、眞鍋眞鍋になっちゃったんだよね。

――眞鍋さんといえば、昨年の銅メダル監督なわけですけど。
すごいよね!
現役時代の眞鍋と変わったよね。今年ソウルの会ここでやったんだけど。なんか生きてる世界が違うなと思っちゃったね。現役時代からあいつはせこいやつで(笑)、バレーに関して頭がよかったから、なるほどなと思うものを持っているよね。

――眞鍋さんのエピソードは?
しょっちゅういたずらしてやったよ。たとえばね、どこか遠征しにいったときに、みんなでコーヒー飲んでたの。で、俺の隣に植木があって、ちっこい石が敷き詰めてあったのよ。ちょっと茶色っぽい。あれをぽいってあいつが見てない間に、あいつのコーヒーの中に入れてやったの。そしたらあいつ、砂糖だと思ったらしく、一生懸命かき回して溶かそうとしてるのね。で、もちろん溶けなかったんだけど、噛んで溶かそうとして口に含んでがりっと…(笑)。で、がりっと言った瞬間に俺の顔見るんだよ。それから周りを見渡して「これ入れたでしょ!」って怒ってたね~!

――眞鍋さんもその後いたずら魔王になっちゃったみたいですね。
ルーツは俺かな?
最後の方の全日本はそういう楽しいことがいっぱいあった。十代二十代前半は楽しいことはなかった。人気なんか全然気にしてなかった。

――以前田中直樹さんに取材させていただいた時に、「クマがもうちょっとまじめだったら、俺たちもっといい成績とれたのに」っておっしゃってましたよ。
練習は嫌いじゃない、内容が嫌いだっただけ。

俺、法政の時は、自慢じゃないけどいつも一番最初に練習に行ってたよ。だけど、やらされる練習は嫌いだったんだよ。あれやれこれやれ、で、それができないとしごく。そういうの嫌いなの。俺が大学4年の時何故4冠とれたかっていうと、俺は上田監督の言うこと聞かなかったの。逆に、うちのチームはこことここを鍛えれば強くなるって4年生同士で話し合ったりして、自分らでやろうぜってなって、自分らで納得した練習をしたからなんだよ。決して上田監督の力だけではなかったね。自分で納得いく練習するならやるし、好き。バレー自体好きだもん。

今は小学校バレーの総監督をやっているんだけど、俺は厳しいよ。厳しいけど、これこれこういうことのためにこういう練習をするんだってちゃんと説明をするよね。そうすると親も子供もちゃんと納得してくれる。ある程度厳しくたってさ。将来的にいい選手になるようにって思って指導してるから。

地域のバレー部の総監督なんだ。男子は2年前につぶれちゃって女子やってる。中学2年の代が全国で準優勝したんだよ。僕も父兄と話するし、父兄もうちの店使ってくれるし。そのときに話もするしね。うちは遠征も行くけど、遠征にも来るのよ。そういうときにみんな使ってくれるよね。

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