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インタビュー

2018-08-10 08:00 追加

「バレーボールは一人じゃできないスポーツ」サントリー酒井大祐コーチ

SV男子

――全日本に最初に選ばれたのは2004年ですよね。

酒井:そうです。2004年のワールドリーグの時ですね。

 

――あの時はアテネ予選で負けて、監督が暫定監督で切り替わるなど、大変じゃなかったですか。

酒井:大変でしたね。全敗でしたし、日本で試合をやった時に「誰?」ていう目線がとても痛かったのを覚えています。あのときの経験というのは大きかったですね。

 

――冷たい目線が?

酒井:なんか火がついたというか。また来年も選ばれてやる!とか、絶対日本で一番のリベロになってやる!とか。

 

――代表歴は?

酒井:ほとんどワールドリーグと、2010年だったかな?世界選手権でイタリアに行きました。そのあとも、震災の年にワールドリーグに行ったくらい。あとはオリンピックの年の合宿にはいつも行ってましたけど。2008年と2012年。そんなに試合には出てないです。

 

――2015年、2016年には「みんなのお母さん役」みたいな感じでしたよね。

酒井:あの時は、JTでの契約が終わってしまい、代表に行けばバレーができるというときでしたから、普通にバレーボールを楽しんだ1年でしたね。「バレー好きだな」って思えたのもその時でしたし、「まだやりたい」と思えたのもあの時だし。「お母さん」…言われてましたね、確かに(笑)。

 

――あの頃、柳田将洋選手に読者からの質問で「全日本を家族に例えると?」というのが来てて、「お父さんはいないかな…。お母さんは酒井さんですね!」って。

酒井:マサね(笑)。別にテレビに出たいからとか、メディアに取り上げられたいからマサと付き合ってるわけじゃなくて、可愛い後輩がサントリーに来てから、あいつと接することで若い子の感覚というか、こうしていくべきなんだろうなという道標がさらに確立したというか。やり方とか、伝え方とかね。あの年は本当に転機となりましたね。

 

――これは少し失礼な言い方になるのかもしれませんが、たとえ2016年OQTでリオ五輪出場権をとれていたとしても、オリンピックは12人でリベロは一人に絞られてしまいます。それまでの起用のされ方をみると、そこに残ることは難しかったのではないでしょうか。

酒井:はい、そうでしょうね。

 

――それをご自分でもわかった上で、それでもチームの支え役をやられていたのは。

酒井:いやぁ、自分的にはオリンピックに出られるかもしれないひとつ前の大会に出るというのもはじめてのことでしたし、もちろん自分が(オリンピックに)行きたいのもありますけど、でも、「自分が出られるか出られないか」は、毎年全日本に選ばれるかどうかと一緒で、最後決めるのは自分じゃない。ただ、その場に立つかどうかを決める意思決定は自分じゃないですか。だから、別に行けなかったからどうとか、最後出られなさそうだから俺行かないとか、そういうのは自分の中でないんですよ。

 

――全日本に選ばれたら日の丸を付ける?

酒井:そうですね。自分の中ではずっとそうです。選ばれたからこそ行ける場所だし。あの時は、もし全日本が五輪に出られたとしても自分は行けなかったとおもいます。でもみんなとその場で必死にやってた自分は誇りに思うとまで言うと大げさですけど、みんな自分のためにも頑張ってくれただろうなと思います。特に(同じポジションの永野)健とはいっぱい話したし、そういう状況だったら僕のためにも頑張ってくれたんじゃないかなって。

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