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コラム

2020-12-30 15:25 追加

カーテンコール 東京五輪金メダリスト・東洋の魔女のエース 井戸川(谷田)絹子さんを偲ぶ

Others / 全日本代表 女子

世界選手権までは「自分たちのため」にバレーをしていたという谷田さん。東京オリンピック出場が決まってからは、「国のために」という思いに切り替わったそうだ。それは、谷田さん以外の選手もそうだったという。「もしも金メダルがとれなかったら、もう日本にはいられない」という重圧もあった。

東京オリンピックが始まってから、大松監督は「本当のオリンピックは23日だけだ」と言い続けてきたという。23日は女子バレーボールの決勝戦の日。つまり、金メダルしか意味がないと叩き込まれてきた。

決勝までの試合についてはほとんど記憶がなかった。決勝のマッチポイントは6回あった。アナウンサーは実に6回も「金メダルポイント!」と絶叫したのである。そしてここでも井戸川さんから印象深い言葉があった。
「コートに立っていた6人全員が、金メダルポイントを自分でとろう!と思っていました。アタッカーはみんな自分のアタックで、サーブを打つ人は皆自分のサーブで、と。私ももちろん『河西さん、私にトスを上げて!』って思ってました」。

勝者のメンタリティとはこの事を言うのだろう。「負けるかもしれない」などとは、誰ひとり思っていなかったのだ。「自分こそが金メダルポイントをとってやる!」とギラギラした6人。負けるはずがない。

さて、実際の金メダルポイントはというと、ソ連の選手のオーバーネットの反則で得点した。このため、一瞬「え? 何が起こったの?」という思いが先に立ち、少しして「優勝したんだ!」という嬉しさが沸き起こってきたという。「ホッとしたという気持ちが強かったですね」と過去を振り返りながら谷田さんは微笑んでいた。

このときのソ連との優勝決定戦では視聴率66.8%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)、あるいは、85%ともいわれる記録を打ち立て、スポーツ中継としては歴代最高となっている。

欧州遠征で選手の夫や子供が応援に来ているのを羨ましく思っていた谷田さんたちは、東京オリンピックのあと、日本の女子バレー選手も結婚したり子供を生んだあともプレーができるように、ママさんバレーを始めた。ママさんバレーは日本で盛り上がり、今に至っている。

晩年は子どもたちにバレーを教えていた。膝を悪くしていて正座はできないが、杖をついてどこにでもでかけた。日本代表の試合もテレビで見ていて、「日本ならではの拾ってつなぐバレーをやってほしいな」と東洋の魔女らしいエールを送ってくれた。

東京オリンピックも是非現地で見たいと希望していたが、コロナ禍でまさかの延期。2度目のオリンピックは、心穏やかに見たいと言っていた谷田さんの思いは叶えられなかった。

取材の終わりに、立ち上がって身じまいを正した筆者のバッグに、バレーボール型のキーホルダーを見つけて「あら? これ、バレーボールじゃない。あなた、本当にバレーが好きなね!」と嬉しそうにされていたことをまだ覚えている。

東洋の魔女のエースよ、安らかに。

文責:中西美雁

プロフィール
谷田絹子(たにた きぬこ)
生年月日 1939年9月19日
没年月日 2020年12月4日(満81歳没)
身長 168cm
体重 65kg

大阪府出身。四天王寺高校時代に、中野尚子、藤森節子とともに高校生三羽烏と呼ばれた名選手。1964年、東京オリンピックのバレーボール競技において、エーススパイカーとして金メダル獲得に大いに貢献した。

オリンピック – 1964年(金)
世界選手権 – 1960年(銀)、1962年(金)


2019年に取材したときのロングインタビューは『1964 東京の記憶』(JTBパブリッシング刊行)に収録されている。

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