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インタビュー

2014-08-25 12:12 追加

加藤陽一 地上の星

V男子

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その人は筑波大学球技体育館の事務室で私たちの訪れを待っていた。

約束の時間より30分近く早く着いてしまったので、どうやって時間をつぶそうと思いながら、窓から中をのぞくと、すでに彼が準備を整えて待っているのが見えたのだった。筑波大学は緑の多いキャンパスだ。窓からも木々の影が入り込み、穏やかな空間を作っている。学生の声で賑わう中、彼の周りだけははっとするほど静寂だった。 

加藤陽一は1976年8月12日に生まれた。加藤とバレーボールとの出会いは、彼がまだ乳飲み子の頃。ママさんバレーをやっていた母が練習に加藤を連れて行き、ボールかごの中に入れて、加藤が泣いたらおっぱいをあげる。そんな日々だったという。 

物心つく前からバレーとふれ合っていた彼だが、本格的にバレーを始めたのは中学に入ってから。その時も母が深く関わっていた。中学校の体育館が競争でなかなか使えない状況だったため、小学校の体育館を学校開放で使わせてもらってという状況で、教師達も多忙でなかなか練習を見られない中、加藤の母はコーチとして、レシーブ練習など、指導に携わった。

―お母さん、コーチだったんですね!

コーチですね。差し入れを持ってきてくれたり、お世話係みたいな形でバレーボールを一緒にやって。中1、中2の夏休みぐらいまで一緒に対人とかやったりして、名物お母さんになって、そこから僕も身長も大きくなって力がついてきて、さすがに一緒にできなくなってしまって、そこからは応援が始まったという感じです。

中学2年生の時に県選抜に選ばれ、そこから選抜大会にいろいろ呼ばれるようになって、高校は大分工業を選択して、春高にも出場した。

―春高3位でしたよね。

そのころは九州や西日本のチームとしかやっていなくて、関東の選手達となかなかやる機会がなかったので、そこで初めて西のバレーと東のバレーの違いを気付かされて。

―どんな違いでしたか?

関東は上手かった。九州はやっぱり、どんなトスでもスパイクを決めていくという感じなんですけど、東京・関東の選手たちは無理をせずに綺麗なバレーをするので、どこかしら余裕のある感じでした。自分たちもそういうバレーを目指したいと思ったので、春高準決勝で東亜学園に負けて、まずは打倒東亜学園を掲げました。九州の熱いバレーに冷静さを取り入れて、九州大会優勝できましたし、インターハイで東亜学園を破って決勝まで行きました。決勝は全然力が出なかったんですけど。

―打倒東亜で燃え尽きてしまった?

そうですね(笑)。2位ですけども良い成績を残せて、大学でもまた高いレベルでやりたいと思いました。

筑波大学を選ぶときもまたいろいろあったと聞く。加藤は、最初はやはりレベルが高い、中央大学、東海大学といった私立の大学に推薦で進学したいと思っていた。親にも、お金の面で楽にさせたいという気持ちがあったからだ。しかし、高校の監督と話をするうちに、「バレーボール人生を終わったらどうするんだ、私立大学に行って企業に入ってそこまでは良いかもしれないけど、そのあと社会人として企業に残って営業だったり事務だったりそういうことをしなくてはいけない。それをお前は出来るか」と聞かれて、彼は少し考えてしまった。

筑波大学というのは、たまたま高校の監督が出身だったのでいろいろ知っていて。在学中にいろんな方向、コーチや指導者いろんな経験ができるという国立の総合大学なら、バレー人生が終わった後の将来がまた少しずつ違ってくるんじゃないかという話で、自分で納得して決めました。親は当初はやっぱり、私立の名選手が集まってレベルの高い練習をして、という感じを望んでましたけど。

筑波は文武両道なので勉強もしっかりしなきゃいけない。筑波の良いところは推薦ではない一般の学生たちと一緒に練習・凌ぎを削っていく、一般がうまくならないと練習ができない、チームが強くなっていかないというところだと思います。そういった意味では、学生でありながらも、僕も指導する立場だったんです、同学年の1年生でバレーボールをメインにやってきていない人たちをどうやって底上げするかっていう所がありました。

―指導者的なことは、その時代からやっていたということ?

そうですね。彼らは厳しいバレーボールやったことないですし、自分の思うがままにバレーボールをやってきた。そして勉強を真剣にやってきた人たちと、高いレベルでバレーボールをするということはモチベーションが下がる選手も多かったんですけど、それは自分達推薦組のプラス思考で乗り越えていきました。「バレーボールは本当に俺らにまかせろ! 勉強の方は頼む」と。授業は一緒に行きますけど、解らないことがあったら聞いたりレポートを見せてもらうとか、そういう持ちつ持たれつという関係でやっていった結果が、4年生で自分達の代で良い成績を残せて、同年代の子達も感謝してくれました。本当に切磋琢磨しながらお互いに共存しながらやってきたところが、大学4年間すごく充実していたなと思いますね。

torraykato―最初はNECで金子(敏和)さんと一緒にプレイしたかったと当時うかがった記憶があります。それが東レに進んだいきさつと、東レでどんな生活をされたか教えていただけますか?

当時NECは強かったですし、自分をスタメンから中心に使ってくれるのはNECではないと思ったんですね。いくら学生時代に有名選手でも下積みを積んで試合に出るということでしたし、自分を上手くメインで使ってくれるチームを選びたかった。

いろんなチームがありましたけど筑波大学のOBの方々もたくさんいましたし、ロイボールというアメリカ人の2mのセッターが当時いたり、斎藤信治さんだったり、大型チームとして日本をどういう風にリードしていくかという事も僕自身も興味がありましたし、ナショナルチームに近い高いレベルの選手が集まる環境だと思ったので、迷わず東レを選択しました。

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