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インタビュー

2016-06-27 09:00 追加

『つなげたから』五十嵐元 引退記事(1)

V2/V3 男子

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--バレーボールを始めてからのことを、順番にお伺い出来ればと思います。まず、始めたきっかけから。

立派な理由ではないので恥ずかしいんですけど、小学校ではサッカーをやっていて、中学校に入るときにサッカー部に入ろうかと思っていたら、ちょっと怖い先輩とかいて(笑)、なんか、サッカー部怖いなぁとか思って。バレー部には兄がいたのと、父もバレーボールを教えている人で、身近にバレーボールがあったので、それがきっかけで、バレー部入ろうかな、ということで始めました。

--その頃は、どんな感じだったんですか?

中学校はほんとに弱かったんですが、みんな一生懸命というか…立派なポジション名が付くほどのものではないですし、とりあえず、ローテーションして、スパイク打って、サーブ打って、という感じで3年間やった、ということですね。

--そして、高校は、地元の苫小牧を離れて、東海大四(現・東海大付属札幌)に進学されます。どのようなことが契機だったのでしょうか。

中学では実績もなにもなかったのですが、どうしても進みたいという希望があって、入りたいということを当時の櫻田先生に伝えてもらって、練習に参加して、いいよという返事をいただきました。

--そして親元を離れて寮生活を送られたわけですね。高校3年間はどのような感じだったのですか。

今でも、人生でその時期がいちばんつらかった、というのは間違いなく言えますかね。もちろん毎日バレーボールするのはきつかったし、僕の場合はいちばんへたくそで入ったんで、人見知りも相まって、先輩とか同級生とか、人間関係も最初は苦労しましたし…つらかったなぁというのは、という…。でも、結果的には、3年間、なんとか無事終えたんで。

--やっぱり、『四高』といえば、北海道でいちばん強いところですよね。

実績ある中学生が全道から集まって、みんなギラギラしてるんで、そんな中に飛び込んだんで、ついていくのだけで必死でしたね。

高校時代

高校時代

--そして順天堂大学に進学されます。順大に進まれたのは、どのようなきっかけでしょうか。

ちょうど僕らの代は、みんな東海大学には行っていないんですよ。加賀(龍哉、早稲田→FC東京)、中西(了将、法政→NEC)…。北海道東海大学(現・東海大学札幌校舎)には行ったんですけど。東京ガスにひとりと、あとは北海道で進学とか、バレーボール続けていないやつとか…。
僕は、最初道内の国立大学を受験しようとしていたので、推薦の時期が一人だけ遅かったんですよ。ほかの人は私立で次々決まっていく中で、僕だけ受験を控えてるという状況だったのですが、順大がまだ選手を探しているという話が来て、僕のことを見てくれたので、そういう意味では、普通の推薦で進路が決まるようなタイミングよりは、かなり遅いタイミングで決まった感じです。

--進路を今一度考えたきっかけというのがあったんですか。

僕らの代は岡谷工業が3冠だったですが、インターハイでセット取ったのは僕らだけだったと思うんです。それが、正直、当時の僕にはすごい自信になって、同級生も凄い奴らばっかりだったんで、これは国体とんでもなくなるんじゃないかと思ったら、緒戦で負けちゃった(鹿児島に2-3)んですね。
高校までお腹いっぱいやって、バレーボールは、もういいや、一生懸命やるバレーはいいかな…と思っていたところ、緒戦で負けちゃって。あーッて思ってたら、ちょうど(順大への)進学の話があったんで、穴の空いたところに上手いところハマったという感じになりました。

--順大での4年間を振り返っていかがでしたか。

僕は高校では6番目の選手だったんで、まさか大学行って1部でやることは考えてなかった、というのはありました。縁あって進学させてもらったんですけど、僕がどうなんだろうというのは実は思ってたんですね。入ってみると、試合に出る機会が1年から何度かあったんで、ほかの大学はそうそうたるメンバーがサイドを務めている中で、僕が1部で1年生からサイドで出ることができたというのは、すごくラッキーだったなとは思います。

--在学されていた頃(2001年入学、2005年卒業)は、ちょうど筑波と東海が強かった時期でした。当時は、筑波をどのように感じていたんですか?

とりあえずは強いですよね…、やっぱり。もう、定かではないですけど、セットもいうほど取った記憶ないですし、なので、どういった活動してるのかーという意味でも、すごいなという気持ちは持っていました。いま思うとそう思ってる時点で負けているような気がするのかもしれませんが。
でも、どこかで、自信つけてたタイミングとかもあったんですけどね、結局最後まで勝つことはできなかったですね。

--試合のいろいろな局面での手ごたえ、というものと、勝ち負けというのとは、また違うんでしょうね…

そうですね。結局、4年のインカレくらいは、けっこう準決勝までは行ったんですけど、そこまではまあ間違いないんだろうと思ってるくらい自信はついてたんですが、それでも全然歯が立たなかったという意味では、大きい2強だったと思いますね。

--様々な経験を積まれた4年間になったわけですね。

1年のときの4年生に、すごい実績のある方が多かったんです。越谷(章。東レ→現東レ女子コーチ)さんとか。その年は、何もしなくても点が入る感じで、ほんと、お客さんだったんだなーと思いながらコートにいたのを憶えてますが、その代が抜けてから、なかなか勝てないシーズンが続いて、2年の春には入れ替え戦にも行ったんです。
4年でキャプテンになったんですが、チームをまとめるのにはすごく苦労してきて、当時のチームメートには迷惑をかけたという思いしかないんですが、そういった中でなんとか…。インカレでは、負けたら何もないなぁという感覚はあったんですけど、久しぶりに順大がベスト4いったし、と。結果としてベスト4をたたえてくれる方もあって、僕が入学してから一回もセンターコートに行ってなかったですし、準決勝行ったんだという意味では、まあまあ…。
負けたそのときは、3位決定戦も負けたんで、それはもうひどく落ち込みましたけど、振り返ってみると、まあまあキャプテンもぼちぼち頑張れた…頑張れたじゃないですね、支えられながら、やめなくてすんだな、そういうインカレが思い出に残っています。

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